中村 雀右衛門 (4代目) ナカムラ ジャクエモン
- 本名
- 青木清治
- 俳名・舞踊名
- 俳名は梅斗、舞踊名は藤間亀三郎
- 屋号
- 京屋
- 定紋
- 京屋結び、向い雀
- 生没年月日
- 大正9(1920)年08月20日〜平成24(2012)年02月23日
- 出身
- 東京
プロフィール
大正9年8月六代目大谷友右衛門の子として東京で生まれた。昭和2年初代大谷広太郎を名のって初舞台を踏み、子役時代から才能を発揮し立役役者として将来を嘱望された。15年に応召され、南方戦線を転々とし死線をさまよった末にスマトラで敗戦を迎えた。その間、18年に父が鳥取大地震で死去した。21年11月に帰国し、22年の地方公演から舞台に復帰し『吉野山』の忠信、『手習子』などを演じ、七代目松本幸四郎の娘晃子と結婚した。その幸四郎の勧めで女形に転向することになり、一から再スタートを切った。22年に三越劇場で十一代目市川團十郎(当時九代目海老蔵)と演じた『毛谷村』のお園の新鮮な演技が評判になり、『絵本太功記』の初菊、『浜松風』の小藤、『傾城反魂香』「吃又」のおとくなどを演じて花形の女形として人気を集めた。自身は緊張の連続だったようで「お園の初日で花道に出るとガタガタと音がするのです。何だろうと思って下を見ると、私の履いている下駄が音を立てていたんですよ」と聞いたことがある。
23年3月東京劇場『扇屋熊谷』の小萩実は敦盛、『戻駕』の禿(かむろ)たよりで七代目大谷友右衛門を襲名、その後は『藤十郎の恋』のお梶、『忠臣蔵』のおかる、『寺子屋』の戸浪、『大森彦七』の千早姫、『十六夜清心』の十六夜、『朝顔日記』の朝顔、『葛の葉』の葛の葉などを演じ、女形として着々と修業を重ねた。
25年に映画監督の稲垣浩に乞われて東宝の村上元三作『佐々木小次郎』に主演し大ヒット、それを機会に映画入りすることになった。「自分の知らない間に話が進み、どうにもならない事態になっていた」と聞いたことがある。30年までに27本の映画に出演し、初代中村錦之助(萬屋錦之介)、市川雷蔵ら歌舞伎俳優の映画入りの道を拓くきっかけになった。
30年に歌舞伎界に復帰したが、東京には戻れず関西歌舞伎に所属することになった。当時の関西歌舞伎は女形が不足していたため、すぐ立女形(たておやま)になった。関西歌舞伎の立役の内、三代目市川寿海は新歌舞伎や二枚目物、十三代目片岡仁左衛門は義太夫狂言、三代目實川延若は父譲りの上方狂言と舞踊を得意にしていた。雀右衛門はそれぞれの相手役を演じることで一挙に芸域を広げた。また関西の歌舞伎が低迷していたので新しい観客獲得のため新派、新作、通し上演なども企画され、それらの舞台にも出演した。雀右衛門自身は33年8月中座の『東海道四谷怪談』の通しが一番印象に残っていると書いている(『女形無限』)が、原作のすべての場面を上演しお岩をはじめ6役を演じ、昼の部では『摂州合邦辻』の玉手御前と『娘道成寺』を演じている。32年には延若と宝塚歌劇の白井鐵造作の歌舞伎レビュー『姐己』を演じた。
36年に東京へ戻り、39年9月に歌舞伎座で『金閣寺』の雪姫、『妹背山御殿』のお三輪で、四代目雀右衛門を襲名した。しかし、当時の東京には六代目中村歌右衛門、七代目尾上梅幸という2人の先輩の立女形がいた。雀右衛門は再び若女形の立場に戻り、2人が不在の時は十七代目中村勘三郎、初代松本白鸚、二代目尾上松緑らの相手を務め、一方ではその頃台頭してきた十二代目市川團十郎、現・尾上菊五郎らの相手役を演じるという便利使いをされた。結果的にはそれが幸いして、相手役とともに老いる運命を免れた。41年に国立劇場が開場して数々の通し上演をする。雀右衛門はそんな狂言で実力を発揮した。41年の開場公演『菅原伝授手習鑑』の八重、42年には『桜姫東文章』の桜姫、『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがぢゃやむら)』のお時、『曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)』の皐月、43年には『義経千本桜』の静、『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』の三千歳、『漢人韓文手管始』の高尾に出ている。
55年60歳になった雀右衛門は「雀右衛門の会」を発足させた。女形に転向した時、岳父幸四郎から「女形は60にならないと物にならない」と言われた言葉を思い出したのである。第1回は『楊貴妃』『夕霧由縁月見』、2回目には『桜の森の満開の下』『傾城浅間嶽』『葵の上』と新作を演じ、5回目からは様々な道成寺舞踊を踊るといった具合に新しい役に積極的に挑戦した。
舞台の一方、ジムに通い若い人に並んで身体を鍛えた。革ジャンに長靴を履いて颯爽と闊歩する姿を何度か見かけた。艶やかで若々しく華のある芸風は、こうした努力から生まれ保たれた。昭和末から平成初めにかけて戦後歌舞伎を支えてきた俳優が次々に逝き、あるいは衰えていった中で、雀右衛門1人は次々に新しい役に挑み若返っていった。平成になってからは、実質的な意味で歌舞伎界全体の立女形の地位に就いた。平成3年に人間国宝に指定され、13年に文化功労者に選ばれ、16年に文化勲章を受章、数々の栄誉に輝いた。
脇役の家系に生まれ、さまざまな不運や不遇を逆にプラスに転じて、晩年まで瑞々しい舞台を演じ続けた。誰にも頼らず、肉体を鍛え、常に新境地を拓くことで、最後に歌舞伎界の頂点に立った。若さと円熟という矛盾を1つに体現した俳優だった。
【水落潔】
経歴
芸歴
六代目大谷友右衛門の長男。昭和2年1月市村座『幼字劇書初(おさなもじかぶきのかきぞめ)』の桜丸で大谷広太郎を名のり初舞台。昭和23年3月東京劇場『扇屋熊谷』の敦盛ほかで七代目大谷友右衛門を襲名。昭和39年9月歌舞伎座『金閣寺』の雪姫ほかで四代目中村雀右衛門を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。昭和55年から13回にわたって「雀右衛門の会」を主宰。長男は現・友右衛門、次男は現・雀右衛門。
受賞
昭和55年度日本芸術院賞。昭和59年紫綬褒章。昭和61年眞山青果賞大賞。平成2年伝統文化ポーラ大賞。平成3年重要無形文化財保持者(人間国宝)。平成4年日本芸術院会員。平成10年松尾芸能賞大賞。平成12年勲三等瑞宝章。平成13年文化功労者。平成16年文化勲章。歿後従三位に叙せられる。ほか受賞多数。
著書・参考資料
昭和62年『雀右衛門写真集 すずめ百まで』(岩田アキラ写真、京都書院)、平成10年『女形無限』(中村雀右衛門著、白水社)、平成17年『私事(わたくしごと)―死んだつもりで生きている』(中村雀右衛門著、岩波書店)、同年『写真集 四世中村雀右衛門の世界』(「演劇界」臨時増刊、演劇出版社)、平成18年『名女形・雀右衛門』(渡辺保著、新潮社、平成24年 『女形とは―名女形 雀右衛門―』と改題され角川学芸出版、角川ソフィア文庫)、平成26年『四世中村雀右衛門追悼集 花がたみ』(髙橋睦郎編集、中村雀右衛門後援会[非売品])など。