岩井 半四郎 (10代目) イワイ ハンシロウ
- 本名
- 仁科周芳(にしな・ただよし)
- 俳名・舞踊名
- 俳名は笑猿・杜若、舞踊名は岩井半四郎
- 屋号
- 大和屋
- 定紋
- 丸に三ツ扇、杜若丁字
- 生没年月日
- 昭和2(1927)年08月08日〜平成23(2011)年12月25日
プロフィール
性格の明るい朗らかな人だった。踊りの家に生まれ、二代目市川猿之助(初代猿翁)の門に入り、二代目市川笑猿を名のり、昭和26年10月の歌舞伎座で十代目岩井半四郎を襲名した。この折の『源氏物語』の若き光の君の美しさは伝説になった。昭和31年に東宝入社、36年には松竹に復帰した。戦後、歌舞伎から映画の世界に身を投じた人も多いが、映画時代のこの人の人気は高く、テレビドラマにも数多く出演している。歌手の肩書もあって当時のマルチタレントの1人だったようだが、筆者はその時代を知らない。歌舞伎に復帰して昭和40年代からの半四郎は主に二代目尾上松緑の一座で活動していた。その頃国立劇場の正月公演は松緑一門と決まっていたが、半四郎も必ず一座して立役から道化、老け役の男女まで手広くこなしていた。社会奉仕活動にも熱心で、ライオンズクラブの役職も長く務められ、大劇場の貸し切りなどで、その顔の広さを使わせていただいたことも一再ならずあった。歌舞伎の俳優であったが、その人脈の豊かさは尋常でなく、付き合いは政界、経済界、スポーツ界から夜の社交界に及び、日本舞踊岩井流の家元としても多岐に渡っていた。俳優としても諸々の役に才能を発揮していたものの、これはという当たり役がないかわり、どんな役でもこなせる器用な人だった。
国立劇場の開場以来の目玉企画に「歌舞伎鑑賞教室」があるが、この公演の解説を何度務めたろうか。半四郎、片岡我當(秀公)、六代目尾上菊蔵、このお三方で解説の形が決まった。ともかく煩い観客に歌舞伎を見せるという大役を担っていただいたわけだが、一瞬たりとも静かにならない高校生に初めて歌舞伎を見せるという至難の大役をよく務めて下さったと思う。昭和44年11月、三島由紀夫の作演出で上演された『椿説弓張月』の下の巻「琉球の場」で、国家の簒奪を狙う大臣利勇という半道敵の役を演じた折、セリフの「君真物(きんまんもん)」という何とも味のあるアクセントを三島が喜び、しばらくは事あるごとに半四郎の物真似で話の花が咲いたものだった。『義経千本桜』「鳥居前」の逸見藤太や『鳴神』の黒雲坊・白雲坊など、目や耳に残る役もある。ともかく貴重な脇役だったことは間違いない。役のことでの苦情や我儘を聞いたことがない。面白くないこともあっただろうが、他人の蔭口を耳にしたこともなかった。楽屋句会の有力メンバーで常に入賞していた印象がある。役の幅も人間の幅も広く豊かな人だった。そして知る限り「いい男だった」。
【織田紘二】
経歴
芸歴
日本舞踊の初代花柳寿太郎の長男。昭和10年11月有楽座『新版侠艶録』の市川ぼたんで初舞台(『歌舞伎俳優名跡便覧』第五次修訂版では、「筋書には同役に中村時雄とある」と記載されている)。昭和14年5月二代目市川猿之助(初代猿翁)に入門、有楽座『法界坊』の里の子で二代目市川笑猿を襲名。昭和21年名題昇進。昭和26年10月歌舞伎座『壽曾我對面』の化粧坂の少将で十代目岩井半四郎を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。
受賞
昭和55年1月『戻橋背御摂(もどりばしせなにごひいき)』の猪熊入道雷雲で、57年4月『時平の七笑』の左中弁希世で国立劇場優秀賞。