中村 歌右衛門 (6代目) ナカムラ ウタエモン
- 本名
- 河村藤雄
- 俳名・舞踊名
- 俳名は魁春
- 屋号
- 成駒屋
- 定紋
- 祗園守、裏梅
- 生没年月日
- 大正6(1917)年01月20日〜平成13(2001)年03月31日
- 出身
- 東京・千駄ヶ谷
プロフィール
昭和の戦後の歌舞伎は、歌右衛門の時代だった。
父の五代目歌右衛門同様、途中辛酸の時代はあったものの、2代にわたって歌舞伎の頂点に立ったのは、この名女形の歌舞伎への熱情と芸への真摯な執念からに他ならない。古風な女形のイメージが強いが、実は精神的に舞台の格調と役の心を大切にしながらも、常に時代の新しさを敏感に悟っていた人だった。芸への謙虚な姿勢は、自分に対して一番厳しい強さを示すものでもあった。昭和40年代半ば、女天下として実質的な頂点に立った時点で、あの華奢な双肩に「歌舞伎」の命運を背負ったのである。
義太夫狂言では“三姫”の八重垣姫、時姫、雪姫から、政岡、戸無瀬、定高といった片はずし系の大役、お三輪などの娘役を当たり役にした。『助六』なら揚巻、世話物では『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋や『与話情浮名横櫛』のお富など。さらに、父が演じて当たり役とした『桐一葉』『孤城落月』の淀の方など新歌舞伎の女人像も立派に受け継いだ。五代目の型と心を守りながら、父子とはいえ確かに芸質の相違があり、時代の変遷もある。そういうすべての問題を把握し、舞台の格を大切に、役の性根を重んじ、よくも悪くも現代にあって観客の心理にも通じる歌舞伎の女形芸を体現しようとした。
当たり役の1つだった『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の尾上の、あの長廊下をあれ程長い時間をかけて入るという芸は、一代のものといえよう。歌右衛門にとってあの場の尾上はああするよりないのだから。恥かしめをうけた屈辱にしおれ、無言で息をつめて入るだけで、歌舞伎座の舞台と客席をその空気とともに支配してしまう肚力はやはり凄かった。八重垣姫の娘心の一途さを見せる可憐な一瞬、政岡の忠義と母の情の狭間で苦しみ、それでも凛と立つ姿、お三輪の竹に雀の件りの哀れさと、後半の「あれを聞いては」の執着心の強さの裏にも娘心の悲しみが滲む。初代中村吉右衛門の相手役以来の当たり芸だった八ツ橋の、あの百万弗の笑顔。栄之丞とのやりとりや縁切りでは、彼女の生立ちや花街の頂点に立つ女の孤独までもが、愛想尽かしの口と裏腹にしみじみと伝わってきた。大詰、再び会いに訪れた次郎左衛門の前にすまなそうにそおっと出てゆく八ツ橋が一入(ひとしお)哀れであった。
『阿古屋琴責』の三曲は景清への思いがしっとりと滲んで、あくまで古風なお芝居で美しかった。踊りでは『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』の白拍子花子や『関の扉』の小町と墨染、『将門』の滝夜叉、『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』のかさね、海外でも好評をうけ上演をくり返した『隅田川』の班女の前でも、実にドラマチックで、女形の風情や気品とともに芝居っけの強い個性的な舞台だった。元気で美しい歌右衛門の名舞台を見ることのできた世代は大きな幸福者である。
しっとりとした美しい女形ぶりもいいのだが、例えば『道成寺』で押戻しがつくと、藍隈をとった蛇体が鐘へ上がり、チョンと柝が入ってから幕が引かれて見えなくなるまで、デロリと赤い舌を見せるようなおどろおどろした妖気、面白さ。『茨木』や『紅葉狩』の後ジテも、歌右衛門自身が楽しんでやっているような感じで客席を嬉しがらせた。楽しむと言えば、俳優祭の傑作『白雪姫』の初演を見た者は超幸福者だと断言したい。
芸魂の権化のような人だったから、自主公演「莟会」で新たな可能性を追求し、体当りで新作や復活狂言に挑戦し、多くの作品を世に出した。『熊野(ゆや)』や『むすめごのみ帯取池』など三島由紀夫作品もそうである。『建礼門院』や『春日局』『北條政子』など北條秀司作品の1本立公演など、円熟した歌右衛門の実力と大きな存在感は、その時代の歴史絵巻のヒロインと世界を現代に具現し、それがいまも通じる母の情であり、女の悲劇であるように観客を堪能させた。1つ前には、『細川ガラシャ夫人』の清婉な珠子役があった。これも独特の清々しく、哀しい女人の美しさが傑出していた。
晩年は熱心に後輩たちを指導し、古典の演出に当たったが、伝統の尊さと歌舞伎の未来を見すえた気概は立派だった。相手の立役についても大先輩の演技まで詳細に覚えていて、後輩を指導している。歌舞伎にそれまでなかった芸術監督という大きな立場の責任を果たそうとした。舞台全体の型から演出、1人1人の役どころの心の在り様まで、しっかり伝えようとして歌舞伎の未来を見つめた熱い情熱だったのだ。
40代で芸術院会員に選ばれ、六代目尾上菊五郎、初代吉右衛門に次いで、歌舞伎界3人目の文化勲章受章の栄誉に輝いた。日本俳優協会、伝統歌舞伎保存会、日本芸能実演家団体協議会などの会長として長年尽くしたことも特筆しておきたい。
自らの最終日を雪と桜と月という、当たり役の墨染そのままに見せ亡くなった。まさに神の技である。一代の名女形の人徳といっていいだろう。
【秋山勝彦】
経歴
芸歴
五代目中村歌右衛門の二男で、兄は五代目中村福助(七代目中村芝翫の父、昭和8年没)。大正11年10月新富座『真田三代記』の内記で三代目中村児太郎を名乗り初舞台。昭和8年11月歌舞伎座『太十』初菊で六代目中村福助を襲名。昭和16年10~11月歌舞伎座『太十』の初菊、『六歌仙』の小町、『九段目』の力弥、『鈴ヶ森』の権八で六代目中村芝翫を襲名。昭和26年4~5月歌舞伎座『妹背山』のお三輪、『道成寺』の花子、『金閣寺』の雪姫で六代目中村歌右衛門を襲名。昭和29年3月「莟会」を結成。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。昭和35年日米修交百年祭アメリカ公演、昭和36年ソビエト(現・ロシア)公演、昭和39年ハワイ公演、昭和42年カナダモントリオール公演、昭和47年ロンドン、ミュンヘン公演、昭和53年オーストラリア公演、昭和57年アメリカ公演、昭和62年ソビエト公演、昭和63年オーストラリア公演、平成2年フランス、ドイツ公演にそれぞれ参加。養子に現・中村梅玉、現・中村魁春。現・中村東蔵は芸養子。
受賞
昭和22年芸術祭文部大臣賞。昭和25年・27年毎日演劇賞。昭和27年名古屋演劇ペンクラブ年間賞。昭和31年テアトロン賞、ITIアカデミー賞。昭和37年5月日本芸術院賞。昭和39年日本芸術院会員。同年1月国際アメリカン協会会員。昭和43年重要無形文化財保侍者(人間国宝)。昭和47年文化功労者に選定。昭和47年伝統歌舞伎保存会会長。昭和54年文化勲章受章。昭和62年第6回眞山青果賞大賞。平成3年第9回眞山青果賞大賞。平成6年第1回坪内逍遙大賞、平成7年高松宮殿下記念世界文化賞。平成8年勲一等瑞宝章。歿後従三位に叙せられる。ほか十三夜会賞、NHK放送文化賞受賞、オーストラリアビクトリア州文化功労賞などを受賞。
著書・参考資料
昭和26年『六世中村歌右衛門』(「劇評」別冊、歌舞伎堂第一書店)、同年『六世中村歌右衛門襲名記念号』(「花道」別冊、齋藤竹治編輯、梨の花会)、同年『六世中村歌右衛門写真集』(中村矢月撮影、柘植厳吉編、和敬書店)、昭和34年『六世中村歌右衛門』(三島由紀夫編、講談社)、昭和49年『女形の運命』(渡辺保著、紀伊國屋書店、平成3年 筑摩書房、筑摩草書/平成14年 岩波書店 岩波現代文庫より復刊)、昭和61年『六代目中村歌右衛門』(河村藤雄著、小学館)、同年『歌右衛門の六十年−ひとつの昭和歌舞伎史−』(中村歌右衛門・山川静夫著、岩波新書)、平成6年『女形六世中村歌右衛門』(秋山勝彦編、演劇出版社)、平成11年『歌右衛門伝説』(渡辺保著、新潮社)、同年『六世中村歌右衛門展 歌舞伎の至芸と心』(河竹登志夫図録監修、NHKプロモーション)、平成13年『歌右衛門 名残りの花』(渡辺保文、渡辺文雄写真、マガジンハウス)、平成14年『歌右衛門合せ鏡』(関容子著、文藝春秋)、平成21年『六世中村歌右衛門』(金子健編、早稲田大学演劇博物館)、令和2年『六世中村歌右衛門展』(世田谷文学館)など多数。。