中村 桜彩 (初代) ナカムラ オウサイ
- 本名
- 岡本久一
- 屋号
- 成駒屋
- 定紋
- イ菱の中に桜、家紋は三ツ柏
- 生没年月日
- 大正11(1922)年07月10日〜平成7(1995)年05月29日
- 出身
- 大阪府
プロフィール
大阪で生まれる。幼時は日本橋にあった母の縁続きの落語家橘家円枝の家で育った。落語の稽古をしたこともあったが、役者になりたくて、新派の梅野井秀夫の一座に加わる。千日前の大阪歌舞伎座開場式で初めて見た歌舞伎に魅せられ、昭和16年、初代中村扇雀(後の二代目中村鴈治郎)に入門。中村扇次と名乗り、歌舞伎役者としてスタートを切る。10月、師の四代目中村翫雀(かんじゃく)襲名と共に、中村翫之丞(かんのじょう)と改名する。その年の末、戦争に突入する。戦後の混乱期には一時、市松延見(えみ)子の一座に加入し、中村圓三郎と名乗る。昭和26年3月大阪歌舞伎座で、中村鴈之丞と改名、その後、師鴈治郎の映画入り、そして大阪の歌舞伎の衰退期にも、関西歌舞伎を動かず、鴈治郎の歌舞伎界復帰後、またその没後も、成駒屋一門を支え、平成2年、三代目中村鴈治郎(四代目坂田藤十郎)の襲名を機に、中村桜彩と改名、幹部に昇進する。現・鴈治郎、現・扇雀を補佐し、3代にわたる成駒屋の後見として大きな功績があるが、また大阪の芝居、取り分けて女形の技法に精通し、〈つくし会〉〈松竹演劇塾〉などの若手の指導役としても、貴重な存在であった。
性格は温厚、律儀で、幼時の環境の故もあり、愛嬌があって、楽屋の内外の多くの人に愛された。生粋の上方の女形で、上方世話狂言の脇の花車方(かしゃがた)を本領とした。『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』「封印切」のおえん、『心中天網島』の叔母などの情味も結構だったし、十三代目片岡仁左衛門の相手にまわった『夏祭浪花鑑』の三婦女房おつぎでも、大阪の匂いを満喫させた。若い頃の勉強会での『時雨(しぐれ)の炬燵(こたつ)』のおさんの技量(うで)の確かさ、『新版歌祭文』「野崎村」のお染の天真爛漫の明るさも忘れられない。本人は、新作物の悲劇の女とか、特殊な癖のある役が好きだと言っていたが、常に凝った役作りで、点景の人物でも面白く仕生かし、芝居の彩(いろどり)を深めた。
平成7年、中座の1月興行で、晩年持役にしていた『曾根崎心中』の下女お玉を初日だけ勤めたのが、最後の舞台となった。享年72歳、成駒屋のためにも、上方歌舞伎のためにも、もっと齢を重ねて欲しかった。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
昭和16年6月神戸・松竹劇場『しゃむろ船』の町の女で中村扇次を名乗り初舞台。昭和16年10月中村翫之丞と改名。昭和21年1月中村鴈之丞と改名(『新版歌舞伎俳優名鑑』(「演劇界」平成5年1月臨時増刊特別号)では昭和20年中村鴈之丞に改名したとの記載がある)。昭和23年10月大阪歌舞伎座にて名題昇進。昭和34年9月大阪新歌舞伎座『籠釣瓶』の雇婆おとら、『廓の夜桜』の仲居で準幹部補昇進。昭和38年準幹部昇進。昭和54年4月伝統歌舞伎保存会会員の第5次認定を受ける。平成2年11月歌舞伎座『鏡獅子』の老女飛鳥井で中村桜彩と改名、幹部昇進。
受賞
昭和60年6月『葛の葉』の庄司妻柵で国立劇場奨励賞。
著書・参考資料
平成6年『中村桜彩舞台年譜』第1集(中村桜彩監修、紙谷次市編[私家版])