中村 霞仙 (2代目) ナカムラ カセン

本名
藤井重兵衛
屋号
末広屋
定紋
七宝に祇園守、五枚藤
生没年月日
明治26(1893)年05月30日〜昭和44(1969)年08月28日
出身
大阪市

プロフィール

明治中期まで、初代實川延若と共に上方劇壇を代表していた中村宗十郎の養子初代中村霞仙の子。大阪で生れる。若手花形として、美しい娘方や前髪立ちの二枚目を持ち役とした。『ちょいのせ』のお染、『新版歌祭文』「野崎村」のお光などが評判になっているし、『梶原平三誉石切』の俣野五郎などは中年頃までの当り役だった。大正14年1月、中座で父の名を襲名した。二代目實川延若、二代目市川右團治、四代目片岡我童(後の十二代目仁左衛門)等の一座に加わることが多く、昭和の初期までは、若手芝居ながら主役を勤めているが、次第に脇役としての貴重な地位を占めていく。

戦後は渋い枯れた芸で、手強い男女の老け役をよく勤め、晩年は東西の舞台で引っ張りだこになった。『女殺油地獄』の母親おさわ、『仮名手本忠臣蔵』「六段目」のおかや、『時雨(しぐれ)の炬燵(こたつ)』の舅五左衛門などが代表作だが、巡業で二代目中村鴈治郎の向うに廻った『河庄』の兄孫右衛門が忘れられない。茶屋酒も知らぬ実直一方な役で、治兵衛に思いきり芝居をさせ、その芝居の下をくぐって、始終受けるように廻らなければならぬという肚をよく心得、情の深い人物を見事に描きあげた傑作だった。

人柄は、むしろ狷介(かたいじ)というべきで、腑に落ちなければ、演出家にもそっぽを向いた。「七人の会」も名門末広屋の当主でありながら、同人に加えられなかったのを恥じ、山口廣一氏の三顧の礼にも応えなかったが、十一代目片岡仁左衛門の恩を忘れず、十三代目の「仁左衛門歌舞伎」には率先して参加し、『ひらかな盛衰記』「逆櫓」の権四郎を買って出た。

一切自分を語ろうとはせず、夫人と2人だけの生活の中に閉じこもり、人付き合いも避けがちだった。昭和 44年、叙勲を固辞された時には手を焼き、無理やりに受けてもらったのだが、よほど意にそわなかったのだろうか、最晩年まで衰えを見せることのなかった矍鑠(かくしゃく)とした演技に急にかげりが見え、同年5月、国立劇場の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の舅繁齋を最後として、その年の夏、忽然と逝った。思えば、華やかさばかりが目立ち、心のつきあいの少ない芝居の世界で、他に構わず、己の道を一筋に深めていく、今日では得難い役者だった。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

初代中村霞仙の子。明治38年9月角座『召集令』の幸太郎で中村紫香を名乗り初舞台(明治37年10月初舞台とする資料あり)。大正14年1月中座『菅公』の妃柵姫、『ぶり網』の漁夫で二代目中村霞仙を襲名。昭和34年9月大阪歌舞伎座で幹部昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。子息も二代目中村紫香を名乗り一時期舞台に立っていた。

受賞

昭和31年大阪府民劇場賞。昭和32年俳優協会賞。昭和44年勲五等双光旭日章。

舞台写真