中村 鴈治郎 (2代目) ナカムラ ガンジロウ

本名
林好雄
俳名・舞踊名
俳名は春虎
屋号
成駒屋
定紋
イ菱、花菱蝶
生没年月日
明治35(1902)年02月17日〜昭和58(1983)年04月13日
出身
大阪

プロフィール

初代鴈治郎は関西劇壇の覇者で、「頬冠りの中に日本一の顔」と謳われた名優だった。それだけに二代目は、その大きな幻影との激しい格闘を強いられた。“中ぼんちゃん”と愛された青年歌舞伎時代は「お父っつぁんそっくり」の熱演で人気を集めた。それを酷評したのが劇評家の武智鉄二で、親父の真似ではだめだ、自分の芸を創れと、激しい芸評が続いた。二代目は苦悩した。華やかで派手な形容から内面的に深める演技に転換し、初代があまりやらなかった女形として二代目實川延若らの相手役もし、また初代以来の和事、和実、実事でも二代目らしい個性と実力を発揮していった。それもこの人の芸に対する真摯な姿勢と人柄である。1人の俳優と劇評家の対峙から、二代目は生まれ変って新たな道を進んだ。こういう生き方も稀有であろう。

芸域は広かった。女形1つとっても、『熊谷陣屋』の相模や『寺子屋』の千代、『酒屋』のお園など、真女形(まおんながた)の役どころから、『鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の岩藤や『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の八汐のような敵役もやれば『盛綱陣屋』の微妙(みみょう)や『道明寺』の覚寿といった品格のある老女の大役まで幅広く、しかもすべてが本役だった。彼の女形芸について武智鉄二も「女形のテクニックという点で言えば、扇雀(四代目坂田藤十郎)など比べられるものではない」と書いた。晩年の『ぢいさんばあさん』のるんの若妻時代の、さりげない肩と胸の微妙な動きで若さ可愛らしさを自然に感じさせて、観る者を驚かせた。映画でも活躍し、小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男、市川崑ら名監督の作品で名優ぶりを発揮した。『大阪物語』『どん底』『浮草』『炎上』『殺陣師段平』『鰯雲』『小早川家の秋』など名作も多い。関西歌舞伎が事実上崩壊しても、「あてのしてるのが上方歌舞伎や」と語ったという自負が、舞台であろうが映画やテレビであろうが、上方の芸と個性のなんとも言えない色気のある演技の妙、味、色を体現し堪能させた。

晩年に演じた『河庄』の紙屋治兵衛や『封印切』の忠兵衛、『廓文章』の伊左衛門などは自由奔放な名演で、愛嬌といい艶といい、古色と写実のない交ぜの面白さを見せた。『曾根崎心中』の徳兵衛の役作りの深さ。型があっても形ではない、上方歌舞伎の魅力、息・二代目扇雀(四代目藤十郎)とのこれらの舞台のぴたりと合った呼吸は、父子だからというものではない、時代の生んだ名コンビの醍醐味だった。『すしや』の権太のいかにも大和下市村の無頼ぶり。『伊賀越道中双六』の十兵衛の前半愛嬌たっぷりの和事味から後半グッと芝居を締めて、親子の情愛を見せる名演も特記される。三枚目も巧かった。『ちょいのせ』の善六の飄々とした面白さなど、絶後のものといえよう。山口廣一演出による『心中天網島』の通し上演の治兵衛では、心中場で縊死シーンまで見せた。通しと言えば『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』の十次兵衛や『伊賀越道中双六』の政右衛門などもいいものだった。『敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)』の治郎右衛門の厚手な義太夫狂言のコクと量感。緩急自在な呼吸の芝居の魅力、「青江下坂二つ胴」の名セリフが白眉だった。『仮名手本忠臣蔵』なら師直から判官、若狭之助、由良之助、勘平、戸無瀬、本蔵と、大敵から二枚目、実事、女形、老け役まで、すべて本役として“兼ねる役者”の魅力を示し、自然に心から役に入る、そこにまた鴈治郎という役者の個性が光り輝くという舞台。いつまでも若々しく新しい感性のある人だったから、新作でも好演した。北條秀司作品の『建礼門院』の後白河法皇、『奥の細道』の松尾芭蕉、『太夫(こったい)さん』のおえいや『京舞』の春子など。

最晩年は病いがちだったが、東京・京都と2ヶ月続いた顔見世を1日も休まず、『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』「新口村」の忠兵衛をつとめ上げて、翌春逝った。芸に生きた花の役者らしい和事師の最後の名舞台だった。

【秋山勝彦】

経歴

芸歴

初代中村鴈治郎(昭和10年没)の三男で、長兄は二代目林又一郎(二男長二郎は早世)。明治39年12月京都南座『太平記忠臣講釈』の太市で本名で初舞台。明治43年12月同座『蘭平物狂』の繁蔵で初代中村扇雀と改名。14歳で子供芝居の座頭(ざがしら)。18歳で神戸中央劇場の扇雀一座の青年劇の座頭。引き続き京極歌舞伎座で5年間修業。22歳で父の許に帰り二代目實川延若、四代目片岡我童(十二代目仁左衛門)一座の立女形(たておやま)として修業。昭和16年10月大阪角座『鎌倉三代記』の三浦之助で四代目中村翫雀を襲名。昭和22年1月大阪歌舞伎座『天網島』の紙屋治兵衛ほかで二代目中村鴈治郎を襲名。三代目中村梅玉、二代目延若、三代目阪東寿三郎を失ったあとは関西劇壇を代表する存在だったが、昭和30年7月以降松竹を去ってフリー。映画、テレビに活躍した後、歌舞伎に復帰。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。長男は四代目坂田藤十郎。

受賞

昭和24年『心中天網島』の治兵衛で第1回梅玉賞。『義経千本桜』鮓屋の維盛で大阪府民演劇賞。昭和41年名古屋演劇ペンクラブ賞。昭和42年重要無形文化財(人間国宝)認定。昭和43年紫綬褒章。昭和44年第20回NHK放送文化賞。昭和45年芸術院賞。昭和46年大阪芸術賞。昭和47年芸術院会員。昭和49年勲三等瑞宝章。昭和55年文化功労者に選定。映画ではブルーリボン助演賞、ホワイトブロンズ助演賞、映画の友演技賞、NHK助演賞、北海道演技賞、京都市民映画祭助演賞などを受賞。

著書・参考資料

昭和47年芸談『鴈治郎の歳月』(中村鴈治郎著、藤田洋編、文化出版局)、昭和49年『役者馬鹿』(中村鴈治郎著、日本経済新聞社)、昭和59年『二代目中村鴈治郎のあしあと』(横山幸男著[私家版])など。

舞台写真