市川 小太夫 (2代目) イチカワ コダユウ
- 本名
- 喜熨斗光則(きのし・みつのり)
- 俳名・舞踊名
- 舞踊名は琴吹流家元・琴吹千草
- 屋号
- 澤瀉屋
- 定紋
- 四ツ澤瀉
- 生没年月日
- 明治35(1902)年01月26日〜昭和51(1976)年01月10日
- 出身
- 東京
プロフィール
澤瀉屋3兄弟の末弟。家の風を受継いだのはこの人も同じで、新進気鋭時分は新劇や大衆劇の上演などで野心的な活躍を示し、厚生劇団を主宰した時代は、二代目中村鴈治郎らと花形歌舞伎で人気を競ったという。鴈治郎とは同い年、寅歳であることから、俳号は鴈治郎が春虎、この人は、青虎。この青虎の名はのちに門人だった市川小金吾が二代目を襲名した。
長く映画やテレビの時代劇の渋い役どころで活躍した末、三代目市川猿之助(現・猿翁)襲名や初代猿翁追善の舞台に出たりして、晩年歌舞伎に復帰。六代目中村歌右衛門と行を共にした。通し上演の『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』の鷺坂左内は、能舞台の『道成寺』伝授で腹を切る定之進の件りが珍しく、いかにも御家老らしかった。二代目鴈治郎が戦後1度だけ演じた『盛綱陣屋』(昭和49年12月南座)の北条時政がこの人で、老獪。首実検で舞台中央、前と後ろに2人揃った絵姿に、青年時代の2人の活躍ぶりが想像された。歌右衛門の新作『春日局』(北條秀司作)の父母に疎まれた家光のために急拠衣服をととのえる後藤縫殿助の情味なども、いい舞台だった。
【秋山勝彦】
経歴
芸歴
二代目市川段四郎の四男で、兄に初代市川猿翁、初代市川寿猿(昭和10年没)、八代目市川中車がいる。九代目市川團十郎の門弟。明治38年9月歌舞伎座『九世團十郎三回忌追善口上』で初代市川蝙蝠を名乗り初舞台。大正7年10月歌舞伎座『随市川鳴神曽我』の箱王丸で二代目市川小太夫を襲名し、名題昇進。大正時代は兄・初代猿翁の起こした第1次「春秋座」で活躍、昭和2年には文藝春秋経営による新劇団「新劇協会」に参加、昭和4年には沢田正二郎が急逝した「新国劇」に客演したこともある。昭和6年、兄・初代猿翁が旗揚げした第2次「春秋座」に再び加わったが、これが挫折すると、関西で大衆劇の「新興座」をつくり、コナンドイルを模した小納戸容(こなんどいるる)の筆名で自ら江戸川乱歩の小説を脚色した探偵劇の上演などで各地で人気を博す。昭和12年から21年まで「厚生劇団」を主宰。昭和25年松竹映画『左近捕物帖 鮮血の手形』への出演をきっかけに映画入り。昭和28年母・花柳琴に因み舞踊琴吹流を創始。映画に多数出演し活躍していたが、昭和47年4月歌舞伎座『北条政子』の比企能員ほかに出演した後は正式に復帰して歌舞伎に専念した。子息は二代目市川蝙蝠(昭和58年没)。
著書・参考資料
昭和39年『吉原史話』(市川小太夫著、東京書房)、昭和43年『続吉原史話』(市川小太夫著、邦楽と舞踊社)。