市川 松柏 (初代) イチカワ ショウハク
- 本名
- 近藤寅之助
- 屋号
- 高島屋
- 定紋
- 三升に松、松葉丸に結柏
- 生没年月日
- 明治35(1902)年01月18日〜昭和61(1986)年03月08日
- 出身
- 東京
プロフィール
関西歌舞伎の脇役として、役者人生の大半を関西で活躍しながら、今一つ上方役者らしくなかったのは、地が東京出身であった故だろうか。晩年、三代目市川寿海没後、関西の歌舞伎公演が激減したのに堪えられず、東京に戻ったが、関西で用いられた程の役はつかなかった。中芝居や小芝居系統の古い芝居に通じていたので、関西に腰を据え、若手のアドバイザーになって欲しい要望はあったのだが…。
父・市川莚女(えんじょ)は、初代中村鴈治郎一座の老女方(ふけおやま)として重宝されたが、やや車輪・オーバーな芸風だったと聞く。その父に似て、まわりにかまわぬ騒々しさが、時には邪魔になったが、芝居を面白くしようとする役者気質(かたぎ)もまた、父譲りであったのだろう。
突き上げるような科白(せりふ)まわしに難はあったが、柄は立派で、端敵が本領でなければならないのだが、本来の人の良さが出て、むしろ善良な老役で存在感を見せた。『仮名手本忠臣蔵』では、「五段目」の百姓与市兵衛が持ち役だったし、上方世話狂言の点景になる野暮な大尽役などで味を見せた。新歌舞伎では『番町皿屋敷』の奴権六や、『鳥辺山心中』の若党八介が目に残っている。決して器用でなく、ぎこちなさが気になったが、その役になりきれたのはさすがに老練の歌舞伎役者で、今日では珍重すべきであったと言えよう。
最後の舞台が、昭和59年3月、中座での『曾根崎心中』の序幕の田舎大尽であったのは、上方の脇を支えた役者として、終わりを全うしたと言って良いのではなかろうか。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
父は市川莚女。明治41年1月明治座『三国無双奴請状』の捨松で市川莚登満女(えんどまめ)を名乗り初舞台。東京明治座で修業を積んだ後大正6年父と共に大阪に移り、国民座を経て関西歌舞伎に移る。大正14年1月明治座で初代市川松柏と改名。戦後は三代目市川寿海の一門に加入。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。
受賞
昭和54年勲五等双光旭日章。昭和54年4月『御摂勧進帳』出羽運藤太で国立劇場奨励賞。昭和55年大阪市民表彰。昭和55年8月『宿無団七時雨傘』親方権兵衛で国立劇場特別賞。