澤村 宗十郎 (9代目) サワムラ ソウジュウロウ
- 本名
- 澤村壽一
- 俳名・舞踊名
- 舞踊名は藤間勘嗣朗
- 屋号
- 紀伊国屋
- 定紋
- 丸にいの字、花有り足有りの笹りんどう
- 生没年月日
- 昭和8(1933)年03月08日〜平成13(2001)年01月12日
- 出身
- 東京
プロフィール
八代目澤村宗十郎の長男。弟が現・澤村藤十郎である。一時、家族揃って映画界入りしたこともあったが数年で歌舞伎にもどった。
春風駘蕩、歌舞伎役者そのものという風情は、舞台も、また知るかぎりの素顔でもかわらなかった。五代目澤村訥升(とっしょう)時代の美しさは大正・昭和を代表する2人の作家の心を動かしている。谷崎潤一郎は「瘋癲老人日記」の冒頭を訥升礼賛で埋め、もう1人の志賀直哉は東横ホールに出る20代の訥升の美しさを毎月のように堪能したという。
30代を迎えると、異才武智鉄二の演出で、『女定九郎』『鬼神のお松』『女河内山』など、女だてらにゆすりや殺人を犯す悪婆(あくば)役を手中に収めてゆく。美貌と不思議な大きさと色気が可能にした役柄である。そして白眉は『傾城忠度(けいせいただのり)』。戦死したはずの薩摩守忠度が傾城漣太夫(さざなみだゆう)として匿われていて、敵役平山の手勢を相手に傾城姿で大立廻りをするという荒唐無稽さも、観る者を納得させる魅力があった。彼のトロリとした水飴のような雰囲気と肉体のもつ不思議さ。宗十郎の場合、つい独特な役が挙げられてしまうが、もちろんそれ以外にも『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』源氏店のお富のそれ者らしい風情、『助六』の揚巻の格調、『恋女房染分手綱』の重の井の情と乳母の威厳。世話物、時代物で当り役は数々ある。
紀伊国屋の血に流れる古風さだけではかたづけられない、芝居が好きで好きでたまらないから出来る研究熱心さを、ノンシャランとした顔の内に隠しもっていた。
平成元年から10回続けた「宗十郎古典歌舞伎復活の会」。悪婆ものの『うわばみお由』を第1回に、珍しい狂言をつぎつぎに演じて楽しませてくれた。大道具大仕掛の『濡れ髪お関』は本公演で観てみたかったが、体は病に蝕まれていった。最後の舞台は平成12年12 月歌舞伎座の、すなわち20世紀最後の演目。家の芸「高賀十種」『蘭蝶』の蘭蝶と女房お宮の2役を千秋楽まで務め上げ、21世紀を迎える喜びと翌1月の新・坂東三津五郎(十代目)誕生を観客に切口上で述べて、翌月この世を去っていった。サービス精神旺盛な宗十郎らしいが、あまりに痛ましい別れでもあった。
【小宮暁子】
経歴
芸歴
昭和16年5月歌舞伎座『助六』の禿(かむろ)で六代目澤村源平を名乗り初舞台。昭和28年9月『菅原伝授手習鑑』加茂堤の八重、『馬盥』の桔梗で五代目澤村訥升を襲名。昭和35~38年東映入社のち松竹復帰。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。昭和51年9月歌舞伎座『伊勢音頭』の貢、『嫗山姥(こもちやまんば)』の八重桐で九代目澤村宗十郎を襲名。平成元年8月「宗十郎古典歌舞伎復活の会」第1回公演を開催、『うわばみお由』を主演。その後毎年夏に同会を開き、古典復活に意欲を見せる(平成4年第4回より「宗十郎の会」と改称し、平成10年第10回まで開催。ただし平成9年第9回は病気のため中止となり、贈名とされた)。平成2年6月訪米歌舞伎参加。平成8年9月訪米歌舞伎参加。
受賞
昭和40年度第11回テアトロン賞、名古屋演劇ペンクラブ賞。昭和53年9月『隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ)』梅の由兵衛で、昭和55年4月『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』うんざりお松で、昭和59年1月『参會名護屋』不破女房藤ヶ枝で国立劇場優秀賞。昭和60年3月松尾芸能優秀賞。昭和62年6月歌舞伎座『恋湊博多諷(こいみなとはかたのひとふし)』小松屋宗七ほかで松竹社長賞。平成6年芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)。平成7年紫綬褒章。平成9年第16回眞山青果賞大賞。平成13年第20回眞山青果賞大賞。