尾上 多賀之丞 (3代目) オノエ タガノジョウ
- 本名
- 樋口鬼三郎
- 俳名・舞踊名
- 俳名は梅華
- 屋号
- 音羽屋
- 定紋
- 菊鶴、重ね扇に多の字
- 生没年月日
- 明治20(1887)年09月21日〜昭和53(1978)年06月20日
- 出身
- 東京・日本橋
プロフィール
六代目尾上菊五郎が女房役者を相次いで亡くしたあと、中芝居で活躍していた市川鬼丸(きがん)の腕を買って一座に迎えた。音羽屋の家にとって古い大きな名跡である尾上多賀之丞を襲名させたことでも六代目の期待の大きさが分かる。
中芝居の花形時代は鼻高の美貌で凄い人気だったといい、田圃の太夫(四代目澤村源之助)の信奉者で、女形はもちろん立役も演じたというから、なよっとした女形ではなかった。菊五郎劇団の終戦直後の巡業で『白浪五人男』の日本駄右衛門を演じて、すこしもおかしくなかったというのだから。
鈴木泉三郎の『生きている小平次』のおちかは、2人の男に愛されて、亭主がもう1人の男を殺すという筋立てだが、魔性のあるこの女の初演は鬼丸時代のこの人である。初めて老役をつとめたのが『暗闇の丑松(くらやみのうしまつ)』のお米の母お熊で、まだ若い多賀之丞を六代目は可哀相に思って、後半の四郎兵衛の女房お今を兼ねさせた。料理人の親分の女房で、若い者にポンポン文句を言い、揚句殺気を漂わせた丑松に年増の色目を使うような、これも女の業を見せるものだが、果して十分な成果をあげている。
そして、先ず挙げなければならない当り役が『盲長屋梅加賀鳶』の女按摩お兼。五代目菊五郎初演以来立役がやってきた役で、それを女形のなんとも言えぬ色気とアクのある魅力的な人間像として見事に再創造し、磨き上げた。強かな中に道玄が女房のおせつを邪険にするのを見て「いずれはアタシもそうなるのかねぇ」とポツリと言う女の思いが、ふと哀れだった。『魚屋宗五郎』で悔みに来る菊茶屋の女房のなんとサラリと粋なこと、反面、汚なづくりの『文七元結』の女房のユーモラスなおかしみ。
六代目没後は貴重な女形の脇役として菊五郎劇団の舞台を支えた。六代目の相手役を演じた人が後輩と呼吸(いき)を合わせて、江戸世話物の醍醐味を再現し堪能させた名舞台だった。女形ながら手強さのある人だったから、時代物の『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の栄御前、珍しい『地震加藤』の幸蔵主、『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』の正栄尼など、ワキにまわってもその格といい劇的な場面の存在感といい、まことに立派だった。人間国宝に指定されるなど数々の栄誉を受け、90歳過ぎまで現役で舞台に立った。
【秋山勝彦】
経歴
芸歴
明治24年4月四谷桐座『鈴木主水』伜(せがれ)幸次郎で市川鬼三郎を名乗り初舞台。明治44年9月明治座『鵺退治(ぬえたいじ)』長田進吾で市川鬼丸を襲名、名題昇進。浅尾工左衛門の甥として宮戸座等で活躍していたが、六代目尾上菊五郎に見込まれ、大正10年10月『小猿七之助』の滝川で市村座に入座。大正11年幹部昇進。昭和2年6月新橋演舞場『厄年』(田村西男作)いろは茶屋のお六で三代目尾上多賀之丞を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。長男は六代目尾上菊蔵。
受賞
昭和33年芸術祭個人賞。昭和40年勲五等旭日双光章。昭和43年重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定。昭和45年名古屋演劇ペンクラブ年間大賞。昭和46年菊池寛賞。昭和49年11月勲三等瑞宝章。昭和51年3月芸団協功労者表彰。昭和51年記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に指定。没後正五位を追贈。