中村 梅雀 (初代) ナカムラ バイジャク

本名
柳川勝好
俳名・舞踊名
俳名は慶子(けいし)、舞踊名は慶子梅太郎
屋号
梅高屋
定紋
梅雀
生没年月日
明治40(1907)年05月06日〜平成元年(1989)年05月17日
出身
大阪

プロフィール

3歳で、四代目中村福助(後の三代目梅玉)の門に入り、中村福呂と名乗って初舞台を踏む。7歳の時『実録先代萩』で初代中村鴈治郎の浅岡で千松を勤めた。18歳の時、京都の三友劇場に出演し、また三代目市川九團次一座にも参加した。昭和2年、マキノ梅太郎の芸名で、マキノプロから映画デビューし、主演映画を撮る。翌年尾上梅太郎と改名して日本映画プロに移籍、更に翌年、今度は中村福太郎と改めて帝国キネマに入社、二枚目役で出演した。その後中村梅太郎劇団を結成して地方廻りを経験し、昭和17年、梅玉の門に復帰、翌年中村梅之助と改名し、一時は所を得たようだったが、終戦前後の混乱期に退座し、フリーとなった。昭和24年頃から、舞踊に専念し、慶子流を起こし、家元におさまっていたが、舞台への夢を捨てきれなかったのだろうか、昭和47年、中村梅雀を名乗って、大阪の歌舞伎に復帰した。以後ずっと籍は置いていたが、芸風は既に時代と合わず、往年の覇気も失せ、好々爺然とした姿を時折舞台に見せるにとどまった。昭和63年南座の顔見世で『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』「角力場」の見物にまじっていたのが最後だった。

まことに波瀾に富んだ俳優人生だが、腕はありながら、門閥出身でない前代の役者の縮図と言えるのではないだろうか。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

3歳の時三代目中村梅玉(当時四代目福助)の門に入り、大正元年10月大阪浪花座『自然と人』で中村福呂を名乗り初舞台。大正14年退座し中芝居、映画出演ののち中村梅太郎劇団を結成。昭和17年歌舞伎に復帰、昭和18年中村梅之助と改名し、幹部昇進。昭和20年退座しフリーとなった後は自由劇団、昭和24年舞踊家となり、昭和47年12月より中村梅雀を名乗り歌舞伎に復帰。