中村 福助 (5代目) ナカムラ フクスケ
- 本名
- 笹木元晴(徳太郎とする資料あり)
- 屋号
- 高砂屋
- 定紋
- 三ツ雀、かん桜
- 生没年月日
- 明治43(1910)年07月21日〜昭和44(1969)年01月01日
- 出身
- 大阪
プロフィール
大阪の南区東清水町で生まれる。温和な性格で、高砂屋の御曹司として鷹揚な芸風を忠実に受け継いだ。立派な柄と歌舞伎役者らしい大きな顔立ちが目立ち、祖父・二代目中村梅玉の滋味、父・三代目梅玉の情趣とは異なり、大味だが立役畑で風格を見せた。吉右衛門一座に所属してからは、敵役を専らにし、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』の権八など、江戸狂言もそれなりにこなしたが、何か今一つぴったりせず、物足りなかったのは、高砂屋の風と役柄が合わず、生粋の上方役者としては、やはり場が違ったからであろう。
晩年大阪に来る機会も多くなり、「七人の会」にも喜んで参加し、水を得た魚のように生き生きとした舞台をみせた。歌舞伎役者の中で、唯一の楳茂都(うめもと)流の名取で、珍しい所作事も演(だ)し物として披露したが、二代目中村鴈治郎の相手として演じた『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』「封印切」の丹波屋八右衛門や『土屋主税(つちやちから)』の大高源吾、三代目實川延若の『時雨(しぐれ)の炬燵(こたつ)』の孫右衛門など、芸格も大きく、上方役者そのものの和らか味もあり、大阪の芝居にどっしりとした存在感を示した。
昭和40年秋、九州地方の巡業で『寺子屋』の武部源蔵が廻ってきた。松王丸は十三代目片岡仁左衛門。どうしたわけか源蔵は初役だった。大張りきりで早くから準備工夫を怠らなかったのだが、前月から腰を痛め、やっと乗り込んだ巡業地別府では、稽古さえできず、初日には何としてでも出たいという願いも遂に叶わず、その後ずっと別府で療養を続けなければならなくなった。そして、当地での1年あまりの闘病の後、やっと帰った東京の自宅で寝ついたまま、再び舞台に立つことはなかった。大器、ようやくこれからと言う時に、力量を発揮できなかったのは、口惜しかったであろう。まことに残念だった。
明治以来3代続きで、大阪(高砂屋系)・東京(成駒屋系)で並立していた中村福助の名は、この高砂屋福助の退場で、大阪では絶えた。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
三代目中村梅玉の養子。大正5年5月中座『伊賀越』の娘おのちで中村政治郎を名乗り初舞台。その後初代中村鴈治郎の一座で修業を重ね、研究劇団「技芸座」や「古典座」など若手の勉強芝居でも活躍。昭和10年1月父の梅玉襲名に伴い、中座『石田局』の奴矢田平で五代目中村福助を襲名。昭和11年第1次東宝劇団に参加。昭和15年松竹復帰後は大阪に居住。父の没後昭和26年から吉右衛門劇団に加入し東京に移る。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。成駒屋の名跡と区別するため、通称「高砂屋福助」と呼ばれる。