坂東 家太郎 (2代目) バンドウ ヤタロウ
- 本名
- 長谷川君次郎
- 屋号
- 橘屋
- 定紋
- 橘、車独鈷に太の字
- 生没年月日
- 明治23(1890)年08月26日〜昭和40(1965)年01月27日
- 出身
- 東京・芝
プロフィール
名題になってから、自宅で舞踊の師匠をしながら歌舞伎座などへ出勤していたが、やがて宮戸座・大国座などの中芝居で活躍するようになった。当時は女形として『乳母争い』で吾妻市之丞の篠原に対し照葉を務めたことがある。大歌舞伎では十五代目市村羽左衛門の大番頭格で、戦後はだいたい菊五郎劇団と行動を共にして、男女の老け役を主に演じた。東横ホールの若手歌舞伎では『黒手組助六』の俳諧師東栄、『妹背山』御殿の梅の局、『忠臣蔵』の与市兵衛などを務めている。
十六代目羽左衛門が横浜で『石切梶原』を演じたときは六郎太夫、「旅で彦三郎(十七代目羽左衛門)の熊谷に相模をやり、(二代目坂東)飛鶴・(初代坂東)羽三郎の『梅忠』におゑんをやっているのを、私は横浜まで見に行ったことがある」(阿部優蔵著『東京の小芝居』より()は編集注)。
なお、十三代目・十四代目の守田勘弥、七代目・八代目の澤村宗十郎に仕え、芸達者として知られた二代目坂東弥五郎の最初の師匠は、この家太郎だった。
【松井俊諭】
経歴
芸歴
十五代目市村羽左衛門に入門し、明治29年5月真砂座で初舞台。大正8年1月名題昇進(劇場は歌舞伎座で『寿の門松』という記述があるが〔「演劇界」増刊『現代の舞台俳優』〕、当該年月に演目見あたらず未詳)。