市川 團十郎 (12代目) イチカワ ダンジュウロウ
- 本名
- 堀越夏雄
- 俳名・舞踊名
- 俳名は柏莚
- 屋号
- 成田屋
- 定紋
- 三升、杏葉牡丹
- 生没年月日
- 昭和21(1946)年08月06日〜平成25(2013)年02月03日
- 出身
- 東京都
プロフィール
いつだったか、團十郎にインタビューしていたとき、日頃は謙虚すぎるほどひかえめな十二代目が珍しくきっぱりとこう言った。
「家の芸の歌舞伎十八番だけは、誰にも負けたくありません。そのために渾身の力をこめて勉強いたします。」
おそらく、生涯を通じて努力と忍耐の連続であったであろう團十郎が、健気にも成田屋の芸だけはどんなことがあっても必死で守りぬくという決意表明だったのかもしれない。恣意的に表現すれば、十二代目市川團十郎という役者は本当に「いい人」だった。人格的にも立派であり、決して弱音を吐かなかった。それは、長い歳月を耐え続けてきた道程(みちのり)の産物だったのか。
昭和28年10月、歌舞伎座での『大徳寺』における三法師が初舞台だった。当時九代目市川海老蔵だった十一代目團十郎の父親が秀吉役で、父親に抱かれて登場した“夏雄ちゃん”の三法師は、黒目がちの美しい眼をした本当に可愛らしい子だった。昭和33年には六代目市川新之助を襲名する。
昭和37年の父・十一代目團十郎襲名当時は、成田屋一門は順風満帆だったが、わずか3年後に「十一代目の急逝」という第1の試練が待ち受けていようとは……弱冠19歳で大きな後盾をなくした新之助はただ1人、きびしい歌舞伎界の荒波に耐えることになる。
「セリフがよくない」と誰もが前途を心配した新之助の最も危うく見えた時代だったが、辛抱強く努力して、薄皮をはがすように欠点を1つ1つ克服し、精進を続けた。先輩たちからも「あの子は教え甲斐がある、真剣に人の言うことを聞く」と、信頼を得るようになり、昭和44年十代目海老蔵、昭和60年十二代目團十郎襲名、と力強く芸を高めていった。
十二代目團十郎の芸の魅力は、小手先とか小細工の芸とは無縁の、天衣無縫とも言えるスケールの大きさだった。常に全力投球、全身の力を集結させてぐいぐいと押してくるような迫力を、いつも感じさせた。
歌舞伎十八番『勧進帳』の弁慶は、その風格と強さやさしさが一体となった最高のものだと思う。弁慶らしい弁慶だった。カッと眼をむく力強い美しさの中に、ほのぼのとしたあたたかさがあり、それが十二代目團十郎の弁慶の特質だったと思う。『助六』『暫』『鳴神』『毛抜』などにも、十二代目の人柄がもたらす自然体の愛嬌が備わっていた。
本来左ききだった十二代目は、右も器用にこなしたせいか、踊りは達者だった。自身でも「踊りは好きです」と言っている。海老蔵時代、六代目中村歌右衛門の胸をかりて踊った『かさね』や、四代目中村雀右衛門との『吉野山』は楽しそうだったし、すぐれた所作物の代表的な舞台である。
團十郎の名前が次第になじんできた頃には、「押し出し」の立派さというのか、座頭(ざがしら)の重さが自然に身につき、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助などは「この人にまかせれば大丈夫」という貫目を感じさせ、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の松王、『絵本太功記』「十段目」の光秀、が似合った。
ごく善人の團十郎が悪役も不思議によかった。『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の仁木、『東海道四谷怪談』の伊右衛門、『金閣寺』の松永大膳などが印象に残るし、『お染の七役』の鬼門の喜兵衛に男の色気が匂った。
平成16年5月、「十一代目海老蔵襲名興行」の舞台で、團十郎は白血病で倒れた。この時の無念さはいかばかりであったろうか。しかし、この難病も十二代目らしいスケールの大きな強さで乗り切り『團十郎復活』という名著まで残した。しかも闘病中に『熊谷陣屋』の幕切れで蓮生(れんしょう)となって「黒谷」を目指した熊谷の、その後のことを『黒谷』という脚本にして、退院ののち舞踊劇として上演した。ペンネーム三升屋白治。白血病の完治を祈っての筆名だ。なんというおおらかさだろう。
團十郎は少年時代から望遠鏡をのぞく天体観測が趣味だった。人間の体内では60兆の細胞が常に働いており、その中でも血液は重要な役目を果す1つの宇宙である。おそらく、團十郎は、その“血液の宇宙”に対しても、謙虚に理解を深め、自然体で観測し、市川家独特の荒事のような大きなスケールで難病を克服したのだろう。
難病のあとでも團十郎は意欲的な名舞台を見せた。国立劇場での『象引』は、新しい工夫を加えて面白く見せてくれたし、パリのオペラ座での『勧進帳』は、息子の海老蔵を相手に弁慶と富樫の2役を競演する夢を果した。
大きな病いのあとだけに、もう少し身体をいたわってほしかったというのがファンの本音だったが、役者というものは舞台に立つことが最大の喜びとすれば、納得するほかはない。これからの円熟の芸をファンは期待し、十二代目も新しい歌舞伎座の完成を楽しみにしていた矢先の死は、痛恨の極わみだ。
役者も人間、「人生最後の勝負は人間性である」ということを、誠実な人柄と芸によって示してくれたのが十二代目市川團十郎である。
【山川静夫】
経歴
芸歴
十一代目市川團十郎の長男。28年10月歌舞伎座『大徳寺』の三法師公で市川夏雄を名のり初舞台。33年5月歌舞伎座『風薫鞍馬彩(かぜかおるくらまのいろどり)』の牛若丸で六代目市川新之助を襲名。44年11月歌舞伎座『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』の助六などで十代目市川海老蔵を襲名。47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第2次認定を受ける。60年4~6月歌舞伎座『勧進帳』の弁慶、『助六』の助六ほかで十二代目市川團十郎を襲名。長男は現・海老蔵。
受賞
昭和61年第7回松尾芸能大賞。昭和63年度日本芸術院賞。平成7年と12年に眞山青果賞大賞。平成10年芸術祭賞演劇部門優秀賞。平成19年フランス政府よりフランス芸術文化勲章コマンドゥール章。同年紫綬褒章。同年第55回菊池寛賞。平成23年第27回浅草芸能大賞。平成24年日本芸術院会員。歿後正五位と旭日中綬章を贈られる。ほか多数。
著書・参考資料
昭和47年『市川海老蔵』(現代若手歌舞伎俳優集1)(萩原雪夫編、日藝出版)、昭和60年『市川團十郎』(「演劇界」増刊、演劇出版社)、昭和60年『海老蔵から団十郎へ 十二代目市川團十郎襲名』(薄井賢三撮影、集英社)、同年『襲名全記録 十二代目市川團十郎』(富山治夫撮影、平凡社)、昭和61年『旅のスケッチ集』(十二代目市川團十郎著、ギャラリー新宿高野)、昭和62年『玉三郎・團十郎のことなど 能・歌舞伎役者論』(塚本康彦著、ぺりかん社)、平成13年『十二代目市川團十郎』(薄井大環撮影、マガジンハウス)、平成14年『歌舞伎十八番』(市川團十郎著、服部幸雄解説、小川知子写真、河出書房新社、平成25年 世界文化社より新版発行)、平成20年『團十郎の歌舞伎案内』(十二代目市川團十郎著、PHP新書)、平成22年『團十郎復活-六十兆の細胞に生かされて』(市川團十郎著、文藝春秋)、平成24年『童の心で-歌舞伎と脳科学』(小泉英明・市川團十郎著、工作舎)、平成26年『十二代目市川團十郎』(演劇界ムック、演劇出版社)、平成27年『ありがとう、お父さん 市川團十郎の娘より』(市川ぼたん著、扶桑社)、平成28年『成田屋の食卓-團十郎が食べてきたもの-』(堀越希実子著、世界文化社)