中村 芝翫 (7代目) ナカムラ シカン
- 本名
- 中村栄次郎
- 俳名・舞踊名
- 俳名は梅莟
- 屋号
- 成駒屋
- 定紋
- 祗園守、裏梅
- 生没年月日
- 昭和3(1928)年03月11日〜平成23(2011)年10月10日
- 出身
- 東京
プロフィール
昭和から平成の歌舞伎界で立女形(たておやま)として活躍した。祖父五代目中村歌右衛門、父五代目中村福助と続く女形の名門、成駒屋の跡取りという恵まれた環境に誕生したが、美貌の女形として将来を期待されていた父は昭和8年に34歳の若さで病没。母と共に、明治から昭和の歌舞伎界に君臨した名女形の祖父のもとに身を寄せ、千駄ヶ谷御殿と言われた大邸宅で大切に育てられた。
だが、頼りの五代目歌右衛門は昭和15年に没してしまう。すべての後ろ盾を失い、お屋敷の坊ちゃんから、ひとりの子役となった当時の自分を「広い原っぱに1人取り残されたよう」と後年に振り返っていた。祖父の遺言により、名優六代目尾上菊五郎の門を叩く。六代目も両手を広げて芝翫を受け入れた。この出会いは生涯を決定するほど大きいもので、芝翫は終生、六代目を芸と人の両面で尊敬し、「第3の父」と慕った。師事してからは常に六代目の近くにあり、芸をどん欲に吸収し、六代目からも実の子のようにかわいがられた。
女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』は六代目直伝。戦後の交通事情の悪い中、約1カ月間、六代目の家に通い続けて指導を受けた。昭和23年3月に三越劇場で初演して賞賛を浴び、平成12年9月歌舞伎座の「五世中村歌右衛門六十年祭」で「一世一代」と銘打って舞い納めるまで、生涯のあたり役とし、踊り続けた。「私の『娘道成寺』は、成駒屋型2分、菊五郎型8分ぐらいに混ぜたもの」とは自身の解説である。愛らしく、恋する男が本当に舞台の上に存在するかのような繊細で的確な動きの花子であった。
昭和24年に六代目が没した後は、残された弟子たちで結成した「尾上菊五郎劇団」に加わり、七代目尾上梅幸に次ぐ女形として、二代目尾上松緑や十一代目市川團十郎らの相手役をつとめた。松緑の相手役は後年までしばしばつとめ、松緑の鳴神上人、芝翫の雲の絶間姫による『鳴神』は名品として知られた。
昭和39年に叔父の六代目歌右衛門の一座に移った。芸風の異なる「菊五郎劇団」と「歌右衛門一座」を経験したことで、芸域は広がった。自身で「40歳前に両方を勉強する機会を持てたことは幸せ」と語っているように、いかなる立役の演技にも対応できる卓越した技量を身に付けた。
『鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の歌右衛門の尾上、芝翫のお初、『本朝廿四孝』「十種香」の歌右衛門の八重垣姫、芝翫の濡衣など、歌右衛門とのコンビによる名品も多く生まれた。「お初は、おじ(歌右衛門)と心が通い合うようでうれしかった。そういうお芝居はほかにありません」と、これも自身の弁である。
演技は細やかで正攻法。受けを狙った場あたり的な芝居を嫌い、格調、品位を重んじた。穏やかな人柄で、常に、にこやかであったが、その実、周囲に動かされない信念の強さを持ち、歌舞伎以外の舞台には目もくれず、戦後に歌舞伎俳優の映画出演が増えた時代にも、いささかも心を動かされることはなかったという。
時代物、世話物の両方に優れた技量を持ち、舞踊の名手でもあった。古典では『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の政岡の品位、『妹背山』「吉野川」の定高で見せた娘雛鳥への情愛、新歌舞伎では『一本刀土俵入』のお蔦の前半での崩れた雰囲気から後半の母の姿への変化などが忘れ難い。
そのほか古典では「十種香」の八重垣姫、『摂州合邦辻』の玉手御前、『熊谷陣屋』の相模、『野崎村』のお光、『仮名手本忠臣蔵』「九段目」の戸無瀬、『助六』の揚巻、『金閣寺』の雪姫、新歌舞伎では『暗闇の丑松』のお米、舞踊では『鏡獅子』『保名』『藤娘』『年増』『女伊達』などを得意とした。立役でも『義経千本桜』「すし屋」の弥助、『髪結新三』の忠七などは色気があり、いい味わいであった。住まいの場所から「神谷町」の愛称で親しまれ、後進の女形の多くが、その教えを受けた。
人望も厚く、平成20年から亡くなるまで日本俳優協会会長として、歌舞伎界を統率した。幼いころから病弱で、晩年は体調不良に苦しみ、舞台も休みがちであったが、建て替え前の歌舞伎座最後の平成22年4月公演では『実録先代萩』の浅岡をつとめた。もうひとつの我が家のように親しんできた第4期歌舞伎座との別れに際し、病身を押して祖父五代目歌右衛門のあたり役を演じ切ったことに、強い思いが感じられた。
同年9月の新橋演舞場での「秀山祭大歌舞伎」で初日のみ出演した『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』の淀君が最後の舞台となった。これも祖父のあたり役であった。俳優協会会長として計画当初から深く関わった第5期の歌舞伎座の完成を見ずに終わったのが心残りであったろう。
七代目歌右衛門襲名の決まった女形の長男の現・福助、立役の次男の現・芝翫2人の跡取りに恵まれ、次女は十八代目中村勘三郎に嫁ぎ、男性の孫はすべて歌舞伎俳優として舞台に立っている。自身が母ひとり子ひとりから出発したことを思えば、驚くべき繁栄である。
【小玉祥子】
経歴
芸歴
五代目中村福助の長男。祖父は五代目中村歌右衛門。昭和8年11月歌舞伎座『桐一葉』の女童で四代目中村児太郎を名のり初舞台。昭和15年から六代目尾上菊五郎に師事。昭和16年10・11月歌舞伎座『忠臣蔵』九段目の小浪ほかで七代目福助を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。昭和42年4・5月歌舞伎座『鏡獅子』ほかで七代目中村芝翫を襲名。長男は現・福助、次男は現・芝翫。長女は舞踊家の中村梅彌、次女は十八代目中村勘三郎の妻。
受賞
昭和42年度芸術選奨文部大臣賞。昭和49年度日本芸術院賞。平成元年紫綬褒章。同年日本芸術院会員。平成5年眞山青果賞大賞。同年放送文化賞。平成8年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。平成18年文化功労者。歿後正四位と旭日重光章を贈られる。ほか受賞多数。
著書・参考資料
平成9年『福家族―神谷町物語』(中村芝翫著、ベネッセコーポレーション)、同年『芝翫芸模様』(中村芝翫著、小玉祥子聞き書き、集英社)など。