中村 時蝶 (初代) ナカムラ トキチョウ

本名
飯島俊雄
屋号
萬屋
定紋
揚羽蝶、かたばみ
生没年月日
昭和4(1929)年03月26日〜平成28(2016)年10月14日
出身
東京

プロフィール

 時蝶は三代目中村時蔵に子役で入門し、四代目時蔵の逝去により長男が継いだ現・時蔵とその子の現・中村梅枝、現・中村萬太郎の乳母兼師匠番としての役目を果たした生涯だった。ことに梅枝・萬太郎の舞台となると自ら黒衣を身につけて後ろについていた姿が忘れられない。女方には近年でいえば六代目中村歌右衛門型と七代目尾上梅幸型があるように思うが、時蝶は少し歌右衛門型に偏った芸風だった。常は大人しく役についての不満を口に出されたこともないのだが、幼い梅枝や萬太郎の舞台となると、人が変わったように厳しい指導役だった。人前で叱ることはなかったが、怖い目だった。きっと楽屋での駄目は厳しかったのだろう。昔はどこの家にもこうした口煩(うるさ)い師匠番がいたもので、幹部に教えを乞うと、まずこうした番頭役の指導を受け、総ざらいや舞台稽古で初めて幹部の指導を受けるというのが通常だったようだ。それも常日頃きちんと舞台を見ていることが最低条件だったというのだから、映像記録を繰り返し見て覚えるという今の時代とは大いに違っていた。時蝶の教え方は外形を整えて内面に至るという、ごく真っ当なものだったが、この外形から役に入るという教えは徹底していたようで、大きな役をこなすようになった近頃の梅枝にもその教えが生きているようだ。初代中村吉右衛門の女房役として長い芸歴を積んだ三代目の舞台を知り、幼い頃からその薫陶を受けた播磨屋(萬屋)の芸統は時蝶を通じて当代時蔵に、梅枝・萬太郎に現在受け継がれ、先代時蔵一家の継承者が輝きを放っているのも周知のことだが、そこには時蝶の存在が大きかったと思う。家元を制度として持たない歌舞伎の芸の伝承は「家の芸」にあった。家の芸の継承こそ歌舞伎にはなくてはならないシステムだった。家の芸の継承は、1人の継承者(家長)にできるものではなく、それを支える周囲(弟子を中心とする集団体制)の存在が重要だった。時蔵家の芸は、当代時蔵と一家を盛り立てた時蝶に負うところ大であった。

【織田紘二】

経歴

芸歴

三代目中村時蔵に入門し、昭和12年10月歌舞伎座『二条城の清正』の小姓で中村蝶丸を名のり初舞台。昭和18年中村蝶次郎と改名。昭和28年4月歌舞伎座『御所桜弁慶上使』の腰元夏野ほかで中村時蝶と改名し、名題昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

平成3年6月歌舞伎座『暗闇の丑松』の遣手おくのと萬屋一門にあって四代に亘り仕えた功労で松竹社長賞。平成14年第8回日本俳優協会賞功労賞、文化庁長官表彰。

舞台写真

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