市川 市十郎 (5代目) イチカワ イチジュウロウ
- 本名
- 野路長三郎
- 俳名・舞踊名
- 俳名は市紅
- 屋号
- 小紅屋
- 定紋
- 宝結び、蝙蝠
- 生没年月日
- 明治38(1905)年06月22日〜昭和58(1983)年03月20日
- 出身
- 京都府
プロフィール
京都で楽屋に出入りする鮨屋「寿司政」の息子に生れ、南座で初舞台を踏む。大正2・3年頃、二代目實川延童(二代目實川延若の門弟)の弟子となり、童之助と名乗り、主に京阪の中小芝居で修行経験をつむ。後年の知識博覧は、この期に培ったものであろう。昭和27年、関西の由緒ある名跡小紅屋市川市十郎を五代目として襲名。上方歌舞伎の老巧な脇役として活躍した。また、戦後の関西歌舞伎の立師(たてし)として重用され、数々の名型を残している。中でも『女殺油地獄』と『曾根崎心中』の生玉の立廻りは、立師市十郎の代表作で今日も踏襲されている。上方狂言では『小さん金五郎』、江戸狂言では『野晒悟助(のざらしごすけ)』などで、伝統を踏まえた上で、独自の工夫を見せた。
身体全体から滲み出してくるような上方らしい味とねばりの有る芸風で、少し口先に押し詰めるような口跡も独特で『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』の丈四郎、同じく北六、『心中紙屋治兵衛』の善六などを持ち役にしたが、取り分け近松物の『女殺油地獄』の金貸し小兵衛、『冥途の飛脚』の亀屋番頭、『心中天網島』の大和屋伝兵衛等、短い出番の中で、いかにも近松の世界の人物を活写した。故実にも通じ、『仮名手本忠臣蔵』の大序の雑式で、顔世を呼び出す格調など、近頃では滅多に見ることができない。
晩年は関西歌舞伎の興行が激減し、立師として、また貴重な脇役として腕の見せ所が少なくなったのは、我ひとともに心残りだが、資料の収集や後進の指導にも熱心で、度々誘われたがついに東京に籍を移すことなく、大阪で全うした。
昭和54年、南座の顔見世の『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』の白倉屋万八を最後として舞台に立つことはなかったが、しばしば自適のお宅を訪ね、楽しい芝居の昔話を聞かせてもらった。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
明治45年5月南座『板額』の総出の子役で初舞台。大正2、3年頃二代目實川延若の門弟だった二代目實川延童の弟子になり實川童之助を名乗る。昭和24年1月六代目坂東簑助(八代目三津五郎)の弟子となり坂東大作と改名。昭和26年2月南座『対面』の親梶原で坂東簑三郎と改名、名題昇進。昭和27年1月大阪中座『千本桜』の弥左衛門で五代目市川市十郎を襲名、幹部昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。
受賞
昭和30年8月大阪歌舞伎座『野晒悟助』の立廻りの工夫で努力賞。