尾上 梅祐 (2代目) オノエ ウメスケ
- 本名
- 小林豊(旧名・林信行)
- 俳名・舞踊名
- 舞踊名は吾妻寛三郎
- 屋号
- 音羽屋
- 定紋
- 乱菊
- 生没年月日
- 大正2(1913)年03月15日〜昭和63(1988)年05月31日
- 出身
- 東京
プロフィール
六代目尾上菊五郎に入門し、もらった名前が丑歳生まれゆえ尾上丑太郎だったので、師匠からは亡くなるまで「丑」と呼ばれていた。大正末期に、子役からたたき上げたが、昭和20、30、40年代の菊五郎劇団には、三代目尾上菊十郎、三代目尾上鯉三郎、三代目坂東薪蔵など若手のお師匠番ともなる腕利きの役者が多くいたので、梅祐はその次なる立場であった。役としては、『新皿屋舗月雨暈』の、魚屋宗五郎を取り押さえる磯部邸の門番あたりを坂東八重之助とのコンビで演じていたのが目立ったところで、むしろ、立廻りで本領を発揮した。昭和28年に名題適任証は受けたのに、終生名題にはならなかったことにも示されるが、非常に立廻りがうまい人であったので、花四天(はなよてん)や捕手(とりて)などの絡みで活躍したり、後輩を指導する道を選んだのである。みずからも立廻りの先頭を切って活躍し、切れのある動きで一目置かれた。『倭仮名在原系図』の「蘭平物狂」、『南総里見八犬伝』の「芳流閣」、『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)(弁天小僧)』の「極楽寺大屋根」など、菊五郎劇団の得意とした大掛かりな立廻りでは、八重之助を補佐して立師(たてし)を勤め、絶賛される舞台を創り上げた功績は評価されている。一方、六代目菊五郎在世中から七代目尾上梅幸の後見を担当していた。吾妻寛三郎の芸名で、昭和23年に長谷川一夫が主宰して創立した新演技座の舞台に立っていた時期もあり、アヅマ歌舞伎に同行した経験もある。人間性としては、面白い人物であったという。
【金森和子】
経歴
芸歴
大正10年5月市村座『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」の寺子で尾上丑太郎を名乗り初舞台。昭和10年3月歌舞伎座で三代目尾上柏三郎(はくさぶろう)と改名。昭和13年3月名題下昇進。昭和20年二代目尾上梅祐と改名。六代目尾上菊五郎没後、七代目尾上梅幸の一門となる。昭和28年10月名題適任証受証。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。
昭和47年4月林家を離籍して本名を林信行から小林豊に変更。
受賞
昭和44年3月『南總里見八犬傳』芳流閣の立廻りで、昭和46年3月『青砥稿花紅彩画』極楽寺屋根上の立廻りで、昭和48年6月『心謎解色絲』おさやで国立劇場奨励賞。