市川 猿翁 (初代) イチカワ エンオウ

本名
喜熨斗政泰
俳名・舞踊名
俳名は華果・薊・笑楽
屋号
澤瀉屋
定紋
三ツ猿、八重澤瀉
生没年月日
明治21(1888)年05月10日〜昭和38(1963)年06月12日
出身
東京・浅草

プロフィール

少年期は九代目市川團十郎や父初代市川猿之助(二代目段四郎)の舞台で子役の数々を務め、明治30年から「子供芝居」のスターとして智恵内、吃又、梅王丸、武部源蔵、八重桐、鱶七、濡髪、和藤内、毛剃、雷・船頭、左甚五郎、お舟など、主役級の立役、荒事、女形、踊りを経験する。戯曲の難解化を予感した父の勧めで明治37年京華中学に進学。早大、慶大の文科も聴講して、当時興った新劇やヨーロッパ演劇などに目覚め、明治から大正にかけての時期、歌舞伎の公演の合間に、二代目市川左團次提唱の「自由劇場」や勉強会「吾声会」でイプセン作品などを演じ、的確な役の掘り下げ、達者な演技力で近代演劇の一翼を担った。さらに大正9年に主宰した「春秋座」でも、歌舞伎役者が挑む現代劇への可能性を求めて新作物の上演を意欲的に試み歌舞伎の舞台の糧にし、併せてプロデューサーとしての感覚や能力を身につけた。一方、大正期の新舞踊運動を推進。大正8年に七カ月にわたり視察した米、英、仏の演劇やバレエ・ルッソ(ロシアバレエ)に創作意欲を駆り立てられ、帰国後、立体感を感じさせる動きによる新演出『隅田川』を発表し、また、唄なしの器楽だけでバレエ・ルッソに影響を受けた振付の『蟲』『祭』を世に問い反響を得た。後の『小鍛冶』『黒塚』や『二人三番叟』『独楽』などにもこの振付は生きている。その共通の視点は、常に一歩先の時代を先取りし、新感覚を研ぎすませた意欲的な創作活動にあった。

歌舞伎においても、二代目左團次の影響で、せりふの応酬の中にも心理描写を移す術をきわめ、『御浜御殿綱豊卿』の富森助右衛門、『慶喜命乞』の山岡鉄太郎などはその代表的な傑作。その一方で、大衆が喜ぶ笑いのある舞台も目指した。当たり役となった『小栗栖の長兵衛』『研辰の討たれ』や、夏の風物詩として人気を博した猿之助・六代目大谷友右衛門コンビの『弥次喜多・膝栗毛』シリーズなどがこの路線である。父親譲りのケレン演出も大事にして、早くも明治44年1月には市村座の『西遊記』で宙乗りを見せている。ほかに代表作として、古典では父親から受け継いだ、つまりは九代目直系となる『勧進帳』の弁慶のほか、『仮名手本忠臣蔵』の高師直・加古川本蔵、『義経千本桜』の忠信、『吃又』の又平、『神霊矢口渡』の頓兵衛、『鈴ヶ森』の幡随院長兵衛など。また新歌舞伎の分野でも『修禅寺物語』『新宿夜話』『佐々木高綱』『明君行状記』など名舞台が多い。『日輪』『大忠臣蔵』をはじめ映画にも多数出演している。昭和30年10月の中国公演は、戦後初の歌舞伎海外公演として記録されるもの。また昭和36年7月にはソ連(現・ロシア)公演。いずれも座頭として成功を納めている。清元では清元斎宮太夫(いつきだゆう)の名を許された玄人はだしの実力を持つ。

昭和38年5月、孫の三代目市川団子(現・猿翁)に猿之助の名を譲り、みずからは初代市川猿翁と改名することになったが、披露興行の前に心臓病が悪化。休演の止むなきに至るが、最後の三日間、病院から出勤して『口上』に列座した。これが最後の舞台となり、その翌月に帰らぬ人となった。弟に初代市川寿猿、八代目市川中車、二代目市川小太夫。長男は三代目市川段四郎、孫にいま一人、現・段四郎(三代目段四郎の次男)がいる。

【金森和子】

経歴

芸歴

明治25年10月歌舞伎座『関原誉凱歌(せきがはらほまれのかちどき)』の矢野五郎右衛門一子千代松で初代市川團子を名乗り初舞台、師は九代目市川團十郎。明治43年10月歌舞伎座『桐一葉』の乙奴、大野主馬、『鎌髭』の俵小藤太などで二代目市川猿之助を襲名、名題昇進。團子時代は当時の歌舞伎界で異例の京華中学卒。二代目市川左團次の自由劇場に参加、猿之助襲名後は吾声会や春秋座結成、また遊学してヨーロッパ演劇の視察など漸新意欲をみせた。昭和30 年9月に中国、昭和36年7月にソ連(現・ロシア)と2回海外公演を行なっている。昭和32年日本俳優協会再建とともに初代理事長に就任。昭和38年5月歌舞伎座で孫の三代目団子に三代目市川猿之助を譲り、初代市川猿翁と改名。

受賞

昭和27年日本芸術院賞、昭和30年日本芸術院会員。

著書・参考資料

昭和11年『猿之助随筆』(二代目市川猿之助著、日本書荘)、昭和38年芸談『猿翁芸談聞書』(渡辺茂雄著、時事通信社)、昭和39年『猿翁』(三代目市川猿之助編、東京書房)など。

舞台写真

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