實川 延若 (3代目) ジツカワ エンジャク
- 本名
- 天星昌三
- 俳名・舞踊名
- 俳名は昌鴈、舞踊名は藤間勘太朗
- 屋号
- 河内屋
- 定紋
- 重ね井筒、五ツ雁金
- 生没年月日
- 大正10(1921)年01月03日〜平成3(1991)年05月14日
- 出身
- 大阪府
プロフィール
戦中戦後の関西歌舞伎で、娘形、若衆役を本領として研鑽を積む。昭和12年『仮名手本忠臣蔵』の大星力弥を勤めたが、以降昭和30年まで、この力弥を持役にした。関西劇団での二代目實川延二郎の位置を象徴している。勿論、河内屋の御曹司として、上方歌舞伎の本道で、着実に力をつけ、芸域を広めていった。順調に行けば、父・二代目實川延若同様、オールラウンドプレイヤーとして、関西歌舞伎の座頭(ざがしら)の座に坐っていたはずなのだが…。昭和30年代に入り、関西での歌舞伎興行が激減し、東京へ出演する機会が多くなった。昭和38年、延若の名を三代目として襲名するが、東京歌舞伎座が初披露の場であった。やがて生活の場も東京に移さざるを得なくなった。当初は、その多彩な演技力で重用され、存在感を示したが、本来が上方の役者であった。多くの上方の先輩の芸を見聞し、自ら演じてもいる。上方独自のやり方、そして東京と違った良さも熟知している。自分の工夫で役を作ることを大切にする上方と異なり、先人の演出に従うことを至上とする東京では、延若の考え方が入れられることは少ない。もともと内面的で温和な性格で、表立って争いはしなかったが、自分の知識や技能が十分に発揮できないのだから、次第に屈折の度を深めていったようだ。亡くなる七、八年前から、演技に生彩が失われ、特にせりふの覚えが悪くなったが、後で思えば、その頃から体調を崩していたのだろう。しかし、その事を遂に弁明することはなかった。
『義経千本桜』「鮨屋」や『仮名手本忠臣蔵』の各役等の古典で、上方の形を基盤とした延若独自の舞台を見せてくれたし、『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』「封印切」、『時雨(しぐれ)の炬燵(こたつ)』などの上方狂言にもえもいわれぬ二枚目の味を見せ、父譲りの『夏祭浪花鑑』や『伊賀越道中双六』「沼津」の平作なども忘れられない。舞踊も得意とし、幅広い芸風を誇っていたが、本人が最も凝って、楽しんで演じたのは、立役、女形を問わず、一寸ひねった性格的な脇の役々であった。
平成2年12月、京都祗園歌舞練場での『落人』の早野勘平が最後の舞台だった。数々の栄誉は受けているが、本領を十二分にふるえぬまま、退場を余儀なくされたのは、上方歌舞伎にとってはかり知れぬ痛手であったし、いかにも口惜しい。後継にも恵まれず、延若の名が伏名とされ、名門河内屋が今日絶えているのも、やりきれない。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
二代目實川延若の長男。昭和9年3月大阪歌舞伎座『生立曽我』の曽我十郎などで二代目實川延二郎を名乗り初舞台。戦後は武智歌舞伎にも出演。昭和38年3月歌舞伎座『封印切』の忠兵衛、『須磨の写絵』の行平で三代目延若を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。
受賞
昭和30年『芙蓉露大内実記』の大内晴持で芸術祭奨励賞。昭和33年『油地獄』の与兵衛で毎日演劇賞。昭和38年『吃又』の又平で大阪府民劇場賞。昭和43年『成政』の成政で芸術祭奨励賞。昭和48年名古屋演劇ペンクラブ賞。昭和56年日本芸術院賞。昭和60年紫綬褒章。同年7月『封印切』の忠兵衛で第40回大阪日々賞受賞。平成3年勲四等旭日小綬章。
著書・参考資料
平成13年『三世實川延若』(堀田実編[私家版])
舞台写真
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