浅尾 奥山 (8代目) アサオ オクヤマ

本名
尾田木駒造
屋号
銭屋
定紋
小槌、裏牡丹
生没年月日
明治27(1894)年01月09日〜昭和49(1974)年11月29日
出身
京都

プロフィール

明治末から、大正期にかけて大阪で脇役者として知られた三代目浅尾大吉の門弟。昭和5年、上方歌舞伎の名門浅尾家で重い名跡浅尾奥山を八代目として襲名する。師の没後もずっと関西に籍を置き、脇役として活躍する。戦後は主な老け役を、二代目中村霞仙と分け持って重用された。善男善女をよく勤め、温厚で上品な霞仙の芸風と対照的に、性格的に強い、一癖ある老爺や、意地の悪い老婆役を得意とした。『仮名手本忠臣蔵』「六段目」の母おかやは、むしろ奥山に分があったのではなかろうか。市川寿海の『次郎吉懺悔』の寺男実は盗人伝六は、屈指の当り役であった。

やや偏屈な性格のゆえもあり、置かれた地位に満足できなかったのだろうか、関西歌舞伎を離れ、昭和31年、長谷川一夫のすすめで、大映京都に入社、『逢いぞめ笠』を最初に昭和38年まで、多くの時代劇に老け役で出演する。昭和35年から、長谷川の東宝歌舞伎にレギュラーで、脇役として出演し、達者な芸を見せた。

昭和43年、十七代目中村勘三郎が、初役で『夏祭浪花鑑』の團七を演じた時、乞われて三河屋義平次役で、大阪新歌舞伎座に出たのが、久しぶりの歌舞伎芝居出演であった。さすがに叩き込んだ上方役者の技量(うで)を見せたが、往年の脂っ気は失せ、期待されたほどの押しの強さは見られなかった。その後も舞台に顔を見せることはなく、昭和48年、再び勘三郎の團七で、義平次を歌舞伎座で演じたのを最後に、翌49年11月に亡くなった。享年90歳、年齢に不足はないというものの、その老巧さを思う時、晩年十分に腕を振るう場に恵まれなかったのは、残念である。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

明治33年5月浅尾関三郎を名乗り京都歌舞伎座『毛谷村』の八十松で初舞台。大正2年幹部昇進。大正4年5月名題昇進。昭和5年1月浪花座『春日局』の詫間吉蔵実は曽根五郎、『慶安太平記』の浪士勝田弥三郎で八代目浅尾奥山を襲名。

受賞

昭和25年梅玉賞。

舞台写真

写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます