尾上 佳緑 (初代) オノエ カロク
- 本名
- 山口進司
- 屋号
- 音羽屋
- 定紋
- 四ッ輪に抱柏
- 生没年月日
- 大正12(1923)年11月23日〜平成19(2007)年05月03日
- 出身
- 東京
プロフィール
素顔は穏やかな紳士然の人だったが舞台では鋭い眼光、古風な面構えで時代物なら憎々しい敵役、江戸の世話物では渋い苦みがある老け役が晩年に残した印象だ。『寿曽我対面』で大名の筆頭を始め『石切梶原』で大庭方の修理亮や『坂崎出羽と千姫』などでの大名が思い浮かぶ。一方で『め組の喧嘩』では三池八右衛門や地廻り、『曽根崎心中』の幇間彦丸なども演じていた。アクの強い芸風と言えようが、芸達者だった。
また、苦労を重ねた俳優でもあった。歌舞伎俳優から日本舞踊の師匠となった父親から勘当された。苦手な踊りではなく好きな芝居を選んで兵役を終えた戦後すぐ、前進座に入り、次には浅草の小芝居・かたばみ座に移って勘当となったのだった。不遇の身を救ってくれたのが二代目尾上松緑。その門下として、菊五郎劇団の脇役で活躍の道が開けた。父はその時、「三階さん(大部屋俳優)から入って自分の力でやれ」と叱咤激励したという。
10歳年長だった二代目松緑からはよく怒られていたようだ。先輩俳優から『加賀鳶』の盲長屋の按摩やら『魚屋宗五郎』の父太兵衛、『吃又』の土佐将監などを教えて貰ったといい、師匠から一度だけ褒めてもらったのが将監だったと明かしている。『熊谷陣屋』の百姓麦六、『半七捕物帳』の多助なども演じたが、『三人吉三』の序幕・「大川端庚申塚の場」に出る金貸太郎右衛門、当代松緑の四代目襲名披露の『蘭平物狂』の奴氏平も忘れがたい。芝居の味を一段と深くしてくれた脇役であった。
【大島幸久】
経歴
芸歴
十五代目市村羽左衛門門下で橘流宗家だった橘抱舟の長男。昭和24年5月前進座『鳴神』の黒雲坊ほかで初舞台。かたばみ座を経て昭和28年9月二代目尾上松緑門下となり、同年10月歌舞伎座『大徳寺』の大名ほかで尾上緑次郎の名で大歌舞伎の舞台をふむ。昭和34年10月歌舞伎座『半七捕物帖』勘平の死の顔師坂東三津平ほかで尾上佳緑と改め、名題昇進。昭和47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第2次認定を受ける。
受賞
昭和62年10月『西郷隆盛』の熊吉で松竹社長賞。平成2年1月『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』の差配人与兵衛で国立劇場奨励賞。