嵐 吉三郎 (7代目) アラシ キチサブロウ
- 本名
- 北上弥之助
- 俳名・舞踊名
- 俳名は李冠・里環
- 屋号
- 岡嶋屋
- 定紋
- 三ツ吉、吉蝶
- 生没年月日
- 明治27(1894)年12月01日〜昭和48(1973)年02月11日
- 出身
- 東京・日本橋人形町
プロフィール
東京人形町に生れる。生家は電気商だった。十一代目片岡仁左衛門に師事する。大正12年関東大震災により関西に移籍。昭和3年2月、道頓堀中座で、上方の名門、岡嶋屋の七代目嵐吉三郎を襲名。以後、関西歌舞伎の貴重な重宝な脇役者として活躍し、昭和28年に大幹部に昇進した。
非常に間口の広い芸域を誇り、どんな役でも及第点を取った。『仮名手本忠臣蔵』を例に取れば、晩年では立役の薬師寺(四段目)と女形のお才(六段目)を兼ねて得意としたことからでも、その器用さがうかがえる。元より若い時には由良之助をはじめとする立役、お軽や戸無瀬などの女形の大役、そして脇役のあらゆる役のいずれをもソツなくこなせる腕を持っていた。70歳で定九郎を勤め、史上最高齢の記録だと喜んでいた。器用で簡明直截、分かりやすい芸であった反面、腹が薄いという批判を受けないではなかったが、年齢と共に渋味を加え、老練な舞台を見せた。新作物でも類型から入るようでいて、性格描写が巧みで、良い味を出し成功をおさめた役々が多い。行く所可ならざる役者であったが、本領は上方風の敵役で、手ごわくそれでいて憎めない人間像を見事に描いた。二代目中村鴈治郎父子の『曾根崎心中』では、初演以来、油屋九平次を持ち役とし、評判狂言を支えた。
性格は温厚で、天真爛漫。役数が多いと喜び、配役の都合上、得意の役が他に廻った時の口惜しがりよう、小さな脇役でも気に入った役を受け持ったときの打ち込みよう……、いかにも役者らしい楽しい役者であった。
健康を誇り、興行中は休んだことがなく、人の代わりはしても代役をしてもらったことのないのが自慢で、昭和48年1月、『義経千本桜』「四の切」の河連法眼の役を勤め上げた千秋楽の夜、自宅で倒れ、間もなく2月初め、大往生を遂げたのも、本懐であったろう。門閥の外から歌舞伎界に入って、腕一本で押し切った練達の役者だった。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
明治41年10月東京明治座『吉田屋』の仲居で片岡當之助を名乗り初舞台。大正6年10月歌舞伎座『黒手組助六』の太鼓持で名題昇進、十五代目市村羽左衛門の助六、十一代目片岡仁左衛門の喜文に口上を述べてもらう。大正12年関東大震災を機に関西に移籍。昭和3年2月大阪中座『源平布引滝』の葵御前などで七代目嵐吉三郎を襲名。昭和28年3月大阪歌舞伎座『源太勘当』の母延寿で大幹部昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。長男は八代目嵐吉三郎(北上弥太郎)。
受賞
昭和33年大阪府民劇場奨励賞。昭和45年勲五等旭日章。