嵐 吉三郎 (8代目) アラシ キチサブロウ

本名
北上弥太郎
俳名・舞踊名
舞踊名は藤間勘蔵
屋号
岡嶋屋
定紋
三ツ吉、三ツ柏
生没年月日
昭和7(1932)年01月06日〜昭和62(1987)年09月03日
出身
東京都

プロフィール

戦時中に嵐鯉昇を名乗り初舞台を踏む。戦後は関西歌舞伎で、歯切れの良い、器用な演技で、将来を期待させる若手として、嘱目(しょくもく)された。歌舞伎の再検討を試みた、いわゆる武智歌舞伎でも、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』「熊谷陣屋」では、弥陀六を、『平家女護島』「俊寛」では、丹左衛門を勤めた。『新版歌祭文』「野崎村」の小助で、若手に似合わぬ巧者な味を見せた。

昭和27年、松竹大谷会長と伊藤大輔監督の推薦を受け、松竹京都に入社、本名のままで、『出世鳶』に主役でデビュー、松竹若手ホープとして売り出された。その後多くの映画に出演するが、昭和38年、市川猿之助主演の『残菊物語』を最後に退社、映画界を離れた。松竹京都は昭和40年に閉鎖されるが、時代劇の衰退期に、時代劇スターとして充実期を迎えたのは、不運であったと言われている。その後、母柏貞子の小唄柏派の跡を継ぎ、二代目家元柏貞として活躍する一方、テレビや舞台に出演を続けた。

昭和59年、昔なじみの二代目中村扇雀(現坂田藤十郎)の強い誘いを受け、歌舞伎に復帰し、3月中座で、亡父の名跡を襲いで、八代目嵐吉三郎となった。長い間離れていたとはいえ、基本はしっかりできているから、以後、着実に大きな脇の大役をこなしてゆき、上方歌舞伎の、取り分けて鴈治郎一座の貴重な地位を築きつつあった。『心中油地獄』の河内屋徳兵衛では、歌舞伎畑の外での経験も生かし、的確な人間像を描出した。『熊谷陣屋』の梶原景時では、相応の大きさを見せた。若い頃に痛めた喉のゆえか、調子が少し苦しそうなのは、気になっていたのだけれど、まさにこれからと言うときである。昭和61年11月、国立文楽劇場の『梶原平三試名剣(かじわらへいざためしのわざもの)』の青貝師六郎太夫に出演したのが、最後になろうとは思いもよらなかった。喉頭癌が宿痾になっていたようだ。9月3日没。まだ55歳だった。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

父は七代目嵐吉三郎。昭和15年10月大阪歌舞伎座にて四代目嵐鯉昇を名乗り初舞台。戦後は関西歌舞伎、武智歌舞伎に出演。昭和27年1月松竹大谷会長の勧めで松竹京都撮影所入社、本名北上弥太郎で時代劇映画に出演。その後テレビ、舞台、東宝歌舞伎などに出演する。昭和59年3月大阪中座の「初代・二代目中村鴈治郎追善興行」で亡父の名跡を相続し八代目嵐吉三郎を襲名、『曾根崎心中』の天満屋惣兵衛を務めて歌舞伎界に復帰。

舞台写真

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