上村 吉彌 (5代目) カミムラ キチヤ
- 本名
- 遠嶋直
- 屋号
- 美吉屋
- 定紋
- 折敷型世の字
- 生没年月日
- 明治42(1909)年12月13日〜平成4(1992)年01月01日
- 出身
- 大分県杵築市
プロフィール
大分県杵築生まれ。杵築は江戸時代以来、地芝居の栄えた土地で、芝居好きの父親に子役で出されたのが役者としての出発であった。9歳の年、正式に初舞台を踏んだ後は、九州一円をはじめとして、関西各地の小芝居で、立女形(たておやま)として活躍する。大阪出演の折に、関西歌舞伎の大立者二代目市川右團次より、市川右升の名をもらう。『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』や『阿古屋琴責』を得意とし、とりわけて『阿古屋』は、右升の阿古屋か、阿古屋の右升かと言われるほどの評判を取った。
終戦直後、京都新京極の京都座に出演、初めて松竹の舞台を踏む。松竹の白井会長が、かねてより注目していた故だと言う。昭和22年1月、大阪歌舞伎座(千日前)で、元禄期の名女形、上村吉彌の名を五代目として襲名、以降関西歌舞伎で主に花車方(かしゃがた)として着実な地位を築いて行くが、昭和30年代の半ば、関西歌舞伎は長い沈滞に入ってゆく。廃業する人、映画に転進する人、東京へ移籍する人が続く中、吉彌は当時座頭(ざがしら)であった三代目市川寿海の一門に入り、少ない出番の中で、したたかに生き抜いた。
吉彌の叩き込んだ芸が、昭和40年代に入ってから、ようやく大事にされるようになった。名脇役と言われた人々が次々に亡くなり、重要な老け女形の役々が、集中するようになってきた。また中座で北條秀司の『京舞』が上演された折、地唄の三味線を弾きこなす難役を楽々と演じ、京女の情を見事に描ききった。歌舞伎以外の舞台でも、その技倆とキャリアが買われ、重宝されるようになった。その後は順風満帆、東西の大幹部から、そして若手花形からひっぱりだこにされるようになった。『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』「引窓」の母お幸、『仮名手本忠臣蔵』「六段目」のおかや、『女殺油地獄』の母おさわ、中でも『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の女房おとくは、六代目中村歌右衛門、十三代目片岡仁左衛門の相手にまわり、絶賛された。数々の栄誉を受け、故郷の杵築市の名誉市民にも推された。
平成4年元日、享年82歳で生涯を閉じた。歌舞伎役者としては、波瀾の一生だったが、見事に終わりを全うしたのは、(宜しき)役者であって、(悪しき)役者らしからぬ人柄の故であった。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
大正8年1月中村桂車一座に入り、福岡の大博劇場『鏡山』の腰元早枝で中村桂之助を名乗り初舞台。昭和3年ハワイで1ケ年興業。昭和8年1月二代目市川右團次の門下になり、市川右升(右舛とも)と改名。昭和11年頃から細川興行巡業部に加わり、立女形(たておやま)として関西各地で活躍。昭和19年細川興行解散後は大阪千日前・南宝劇場の「新鋭歌舞伎」に参加。昭和20年白井松次郎松竹会長に誘われ京都新京極の京都座に出演、松竹専属となる。同年名題昇進。昭和22年1月大阪歌舞伎座『連獅子』の間(あい)狂言のためし妻で五代目上村吉彌を襲名、幹部昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。
受賞
昭和49年9月朝日座『新口村』の忠三郎女房で十三夜会賞助演賞。昭和52年11月中座『忠臣蔵』六段目のおかやで十三夜会賞助演賞。昭和55年7月『女殺油地獄』の母おさわで国立劇場優秀賞。同年日本演劇協会より表彰。昭和59年大阪府知事表彰(文化芸術の部)。昭和59年4月『女殺油地獄』の母おさわで歌舞伎座優秀賞。昭和63年3月日本俳優協会より功労者表彰。昭和63年10月御園座『合邦』のおとくで名古屋演劇ペンクラブ特別賞。昭和 63年12月南座『引窓』のお幸で十三夜会賞助演賞。平成元年4月芸団協芸能功労賞。同年勲五等双光旭日章。平成2年第11回松尾芸能賞特別賞。平成3年関西で歌舞伎を育てる会(現 関西・歌舞伎を愛する会)特別賞。
著書・参考資料
平成5年『一方の花 五代目上村吉彌の生涯』(西村彰朗編著、遠嶋貞子〔非売品〕)。