松本 錦吾 (2代目) マツモト キンゴ

本名
菱野京三郎
屋号
高麗屋
定紋
三つ銀杏、四つ花菱
生没年月日
明治28(1895)年05月08日〜昭和31(1956)年01月26日
出身
東京・日本橋

プロフィール

七代目松本幸四郎の門弟。師幸四郎とともに帝劇に行き、美しい若女形(わかおやま)として、期待された。浅草の中芝居で活躍した後、松竹に入り、二代目市川猿之助(後の初代猿翁)の「春秋座」や、二代目市川小太夫の「新興座」に参加、昭和7年より、関西歌舞伎に所属し、長く脇の女形として重用された。年増役をよくし、戦中大劇場が閉鎖されたおり、あしべ劇場、弁天座の中劇場で、『壺坂霊験記』のお里などで器用なところを見せた。『傾城阿波の鳴門』「どんどろ大師」の尼が、本役で、面白かったが、お弓を演じていた三代目中村梅玉が倒れたら、直ぐに代役が見事にできる腕を持っていた。終戦直後、昭和23年9月、京都南座で『壺坂』と『東海道四谷怪談』の3役(お岩、小平、与茂七)を演じ、記録的な大当りを取り、語り草になった。昭和30年、八代目松本幸四郎(後の初代白鸚)の許へ復帰し、東京でも女形の脇役者が払底していたため、直ぐに目立った役がつき、実力を見せたが、わずか半年あまりで、世を去った。享年62歳、まだまだ一花咲かすことのできる年で、ようやく格好の場を得たのに惜しいことだった。

華やかさには欠けたが、変転した舞台修行を生かした、手だれであった。上方狂言では『夏祭浪花鑑』の三婦女房おつぎ、江戸の物では、『巷談宵宮雨』の女房など、錦吾ならではの味を見せた。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

明治37年3月明治座『蒙古襲来』の漁師の子供、『熊野』の女小姓で初舞台(芸名未詳)。明治44年11月帝劇の七代目松本幸四郎襲名の時に松本錦吾と改名。大正5年帝劇『八笑人』にて名題昇進。大正14年松竹へ入り、昭和3年春秋座組織と共に松竹を脱退。昭和4年二代目市川小太夫と新興座を組織し帝劇にて旗あげ。以後関西方面に出演し、昭和7年松竹関西歌舞伎に復帰。昭和30年6月八代目幸四郎(のち初代白鸚)の許へ復帰。長男は現・錦吾。

舞台写真

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