市川 九團次 (3代目) イチカワ クダンジ

本名
竹内嘉三
俳名・舞踊名
俳名は高升
屋号
高島屋
定紋
三升に九の字
生没年月日
明治26(1893)年09月04日〜昭和30(1955)年10月26日
出身
京都

プロフィール

京都で生れる。生家は針工場で、父は市会議員を勤めた竹内嘉作。17歳で上京し、浅草で初舞台を踏み、二代目市川九團次の養子となり、二代目市川莚蔵と改名。後に二代目市川左團次の門に入る。大正7、8年頃から、関西に戻り、大正8年、当時売り出しの初代中村扇雀(後の二代目中村鴈治郎)を中心とした青年歌舞伎に加入し、最初の女形から転じ、扇雀の『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』「引窓」の与兵衛に対する濡髪長五郎で認められ、『梶原平三誉石切』の大庭景親、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の武部源蔵、『仮名手本忠臣蔵』の高師直など、老け役では『菅原伝授手習鑑』「賀の祝」の白太夫等で技倆(うで)を見せた。自分の演し物(だしもの)としては、山崎紫紅作の『捕らはれの小西』の小西行長を得意とした。この新京極の明治座での青年歌舞伎の5年間が九團次生涯での最も華やかな時代であった。

昭和3年2月、中座で初代中村鴈治郎の口上によって三代目市川九團次を襲名、以後、関西歌舞伎で重宝な脇役として活躍した。場合によると、達者に任せて過剰な演技もあったが、素人出の中年役者のハンディを克服した努力は立派である。

上方の匂いを横溢させた演技は、明治大正期の関西歌舞伎の多士済々の脇役陣の中でも遜色はない。晩年の持ち役は『仮名手本忠臣蔵』の斧九太夫や、『本蔵下屋敷』の井浪伴左衛門などであったが、特に昭和24年、中座での『夏祭浪花鑑』で十三代目片岡仁左衛門の向こうに廻った三河屋義平次の泥絵具で書いたような味わいは見事であった。

終戦後、甥に三代目莚蔵を襲がせその成長に望みをかけていたが、期待通り花形になった莚蔵が市川寿海に望まれ養子になり、市川雷蔵を名乗ってからは、往年の覇気をひそませ、更には糟糠(そうこう)の妻女を失った後は、その菩提を弔うことに専念し、関西各地の神社仏閣に「寿海・雷蔵」「九團次・はな子」の一対の石灯籠を寄進し、私財を費やした。

亡くなる前、アメリカに渡り、歌舞伎を指導すると言う噂のあったのも、如何にも九團次らしいが、その望みも果たせぬまま、昭和30年10月、62歳で没した。京都で生れ、京都で育ち、そして京都の病院で終わった。文字通りの上方の役者であった。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

役者にあこがれて17歳の時上京、浅草駒形の蓬莱座で市川九太郎を名乗り『不動萬吉』桜狩の場の腰元で初舞台。20歳で二代目市川九團次の養子となり大正3年8月から二代目市川莚蔵を名乗る。25歳で二代目市川左團次の一門に加わる。上方色の濃い芸風から東京では人気を得られず、大正7年8月頃に京都に戻り大正8年新京極明治座で興行を打っていた初代中村扇雀(二代目中村鴈治郎)の青年歌舞伎に加わる。昭和3年2月中座「市川斎入十三回忌追善興行」で『恋の湖』の伝八を演じ、初代中村鴈治郎の口上によって三代目市川九團次を襲名。八代目市川雷蔵(三代目市川寿海の養子)は、三代目莚蔵を名乗っていた時期にはこの人の養子だった。

舞台写真

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