尾上 九朗右衛門 (2代目) オノエ クロウエモン

本名
寺嶋清晁
俳名・舞踊名
俳名は三朝
屋号
音羽屋
定紋
重ね扇に抱き柏
生没年月日
大正11(1922)年01月22日〜平成16(2004)年03月28日
出身
東京

プロフィール

六代目尾上菊五郎という名優を父にもった重圧は大変なものがあったろう。しかし、六代目が目尻を下げた親子並んだスナップを見ると、“芝居の神様”といわれた人の微笑ましい優しい素顔が見てとれる。『廿日鼠と人間と』など実験劇に挑戦したり、渡米留学したことも、自身俳優としての在り方を模索した末のことだったろう。父の追善で『魚屋宗五郎』の磯部の殿様と『髪結新三』の弥太五郎源七をつとめて風格を見せた。東横ホールの『一本刀土俵入』の茂兵衛も朴訥な男気を感じさせた。『五重塔』ののっそり十兵衛も当たり役の1つ。鷹揚な芸風の立役で、狂言物舞踊の大名などもよかった。どこかふっきれた感じの見えた直後、病いに倒れたのは残念だった。リハビリ後、再び渡米し、アメリカ各地の大学で日本の歌舞伎の魅力を講義したことは、もっと高く認められてもよい。晩年ハワイに住み、ハワイ大学などで外国人に歌舞伎を教えていた。「外国人を馬鹿にしてはいけない。大歌舞伎を海外に紹介しなければ、笑われます」が口癖だった。

【秋山勝彦】

経歴

芸歴

父は六代目尾上菊五郎。義兄に七代目尾上梅幸がいる。大正14年5月市村座『助六』の福山で初代尾上右近を名乗り初舞台。昭和15年10月歌舞伎座『対面』の五郎で尾上九朗右衛門を襲名、名題昇進。昭和24年7月菊五郎劇団結成と同時に劇団理事。昭和25年2月にはピカデリー劇場(邦楽座)におけるプロデューサーシステムの実験劇場『廿日鼠と人間と』(スタインベック作)に出演。昭和26年3月渡米。昭和28年5月帰朝。昭和35年6月訪米歌舞伎一行に同行。昭和38年10月ハワイ大学東西文化センター講師に招かれ、翌年帰国。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。帝劇『風と共に去りぬ』稽古中に倒れ、再起後、歌舞伎座などに出演。昭和44年9~10月訪米歌舞伎に同行。昭和46年渡米、アメリカ各大学(ワシントン・ロングビーチ・ウィスコンシン)で教える。昭和48年ローブドラマセンター(ハーバード大学内)のスタッフとなり日本演劇講座を開講、日本関係の興行の責任者となる。昭和58年コロンビア大学院の研究員となる、訪米歌舞伎、芸術監督補。昭和59年アメリカ・カリフォルニア州大学アーバイン校で教える。昭和60年アメリカ国立劇場機構の芸術評議員に選出される。十二代目市川團十郎襲名アメリカ公演に参加。平成元年2月歌舞伎座「菊五郎劇団四十周年記念公演」に出演。平成4年よりニューヨーク大学の客員教授。

著書・参考資料

平成8年『聞き書き 尾上九朗右衛門―アメリカに移住した梨園の御曹司』(花田昌子著、朝日新聞社)。

舞台写真

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