尾上 鯉三郎 (3代目) オノエ コイサブロウ

本名
加川義雄
俳名・舞踊名
俳名は芙雀
屋号
南部屋
定紋
軍配扇、抱柏
生没年月日
明治30(1897)年02月26日〜昭和49(1974)年12月30日
出身
東京

プロフィール

スッキリ江戸前で渋さがあって……苦みばしった好い男の代表だった。

名脇役だった二代目中村翫助の子で、六代目尾上菊五郎の弟子になった。師匠似の美丈夫で、若い頃は吹き替えを勤めていたというのもうなずける。

菊五郎劇団で『白浪五人男』が上演されれば、昭和30年代からは鯉三郎がいつも浜松屋幸兵衛だった。「ただ今それへ参ります」と障子をあけて出てきただけで、大店の主人とはこういった人かとおもわせ、『文七元結』の手代文七の主人、人情味あふれる和泉屋清兵衛も然りだった。少々嫌味なお太鼓医者『牡丹灯籠』の山本志丈でも、やはり歩く姿が良かった。どんな役でも粋なのである。『水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)』で、貧しい幸兵衛の借金の取立にくる代言人安蔵の、元は士族という不思議な明治の洋装も、鯉三郎にかかるとなんとなくサマになっていた。

六代目菊五郎が没した折、その遺言で、有名な“物干会議”のお膳立てをし、三代目市川左團次らとともに菊五郎劇団を支え続けた。昔はこうしたうれしい一徹な人がいたのだ。

【小宮暁子】

経歴

芸歴

父は二代目中村翫助。大正2年六代目尾上菊五郎に入門し、7月歌舞伎座『湊川皐月の一夜』(長谷川時雨作)の尊氏の兜童で尾上琴三郎を名乗り初舞台。大正9年5月市村座『男伊達芝居賑』の男達仁王の仁太郎で三代目尾上鯉三郎を襲名し、名題昇進。披露口上は師六代目菊五郎がした。市村座時代、『飢渇』(長田秀雄作)の従卒で認められ、『坂崎出羽守』(山本有三作)の松川源六郎は、大正10年の初演以来再三演じた当たり役。昭和24年7月菊五郎劇団結成と同時に理事に就任。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。長男は尾上鯉之助。

受賞

昭和25年毎日演副賞個人賞。「演劇界」月間賞。昭和45年5月勲五等双光旭日章。

舞台写真