嵐 三右衛門 (10代目) アラシ サンエモン
- 本名
- 大川実
- 俳名・舞踊名
- 俳名は杉鳥(さんちょう)
- 屋号
- 津の国家
- 定紋
- 八角小の字、橘の三重ね
- 生没年月日
- 明治39(1906)年10月23日〜昭和55(1980)年07月17日
- 出身
- 大阪府
プロフィール
大阪南の西櫓町の料理屋の家に生れる。昭和23年1月、戦後復興の中座の柿(こけら)落し興行で、上方の大名門嵐家の元祖嵐三右衛門を十代目として襲名、六方の始めとして歌舞伎史に残る元祖三右衛門の〈だんじり六方〉を復活し披露した。
大柄で立派な押し出しの体躯でいて、上方風の柔らか味があり、女形から出発し、立役から二枚目、老け役更には現代劇もこなす器用さがあった。昭和26年、松竹の作った新劇団「新潮」で『夫婦善哉』等々の主役を演じた。昭和27、28年、十三代目片岡仁左衛門の奮闘した仁左衛門一座公演に常連として出演し、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)「引窓」の濡髪、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の源蔵、『三味線やくざ』の親分七五郎などで、松嶋屋の向うに廻り、堂々とした貫禄を見せた。その後直ぐ宝塚新芸座に籍を移し、混成一座の歌舞伎方の座頭(ざがしら)として『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』の河内山、『夏祭浪花鑑』の団七、『無法松の一生』など新旧の芝居を主演した。新芸座退団後は、映画畑に転じ大映の専属となった。以後も東宝系の中間演劇に誘われることも多く重宝された。
大名跡嵐三右衛門を襲ぐほどの本格的な歌舞伎役者でいながら、他の分野に活躍の場を求めたのは、彼の意欲と当時の幕内での処遇が合わなかったからであろうか。またどんな芝居にでも通用する調法さが買われたのでもあろう。関西歌舞伎にずっと腰がすわっていたら、大きな場を占めるようになっていたであろうのに、やっと歌舞伎に戻ってき、二代目中村鴈治郎の一座に加わるようになった時には、既にかっての覇気は無くなっており、コクが失せ水っぽい芸になっていた。年齢とともに体調も不十分で、歌舞伎役者として晩年を飾れなかったのは、才人三右衛門にとってはさぞ不本意であったろう。しかし案外いろいろな畑で思うさま活躍できたことを喜んでいたのかもしれない。
昭和55年、祇園祭の日、京都の自宅でだんじり囃子を耳にしながら亡くなった。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
二代目中村梅玉に入門、大正元年1月浪花座『元禄忠臣蔵』の禿(かむろ)で中村福万寿を名乗り初舞台。大正12年大阪中座で名題昇進。昭和4年2月中座『二人袴』の雛鶴で七代目中村駒之助を襲名、同時に幹部昇進。昭和10年東宝劇団に参加。その後松竹に復帰し、昭和23年1月戦後復興の中座の柿落とし興行において『雪女五枚羽子板』の藤内二郎盛治、『襤褸錦(つづれのにしき)』の加村宇田右衛門で十代目嵐三右衛門を襲名。昭和26年松竹が作った新劇団「新潮」に参加、『夫婦善哉』などで主役をつとめる。昭和27年頃から十三代目片岡仁左衛門の一座の常連として堂々とした貫録を見せる。その後宝塚新芸座に移籍し、混成一座の歌舞伎方の座頭として活躍。新芸座退団後は大映専属となり映画に出演していたが、長谷川一夫の東宝歌舞伎で舞台に復帰。その後松竹の歌舞伎に復帰。昭和47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第2次認定を受ける。