嵐 雛助 (10代目) アラシ ヒナスケ

本名
今井正男
俳名・舞踊名
俳名は眠獅(みんし)
屋号
吉田屋
定紋
たちばな、梅鉢
生没年月日
大正2(1913)年10月04日〜昭和61(1986)年01月29日
出身
東京都

プロフィール

師中村もしほ(後の十七代目中村勘三郎)に付き、東宝劇団に入り、昭和16年もしほと共に松竹へ復帰し、関西歌舞伎に所属する。松竹会長白井松次郎に認められ、もしほが東京に帰った後も一人関西にとどまり、美貌の女形として、めきめきと頭角を表す。昭和17年9月、幹部昇進。昭和18年2月、大阪歌舞伎座(千日前)で、上方歌舞伎の歴史に残る大名跡、嵐雛助を十代目として襲名。四代目中村富十郎に次ぐ女形として、二代目實川延若、三代目阪東寿三郎などの相手を勤め、人気絶頂。戦後も人気は衰えず、映画『田之助紅』に主演する。寿三郎を相手にまわした新作『吉田御殿』を持って、いち早く単身東京に上がっている。年齢を重ねると共に、昭和30年代、関西歌舞伎が不振の期に入り、次第に活躍の場が少なくなったが、ようやく美しさを誇る女形の域を脱し、新作物などで、個性的な役柄を開きかけた時、病に倒れた。
雛助といえば、まず美貌を思い浮かべるが、名門の出でなく、歌舞伎界のスターに駆け上がった技量とバイタリティと役に対する貪欲なまでの真摯な取り組みは並々なものではなかった。先輩に対してもおめず臆せず、後輩には厳しい態度で望む。ある意味では、たたき上げた役者の典型ではなかっただろうか。
容姿は女形にピッタリだったが、難は悪声とも言うべき、声柄で、三姫など古典の大役や、娘役ではハンディであったが、世話物系の敵役がかった役では、粘りのある演技を生かした。『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』の仲居万野など、独特の味を出した。晩年は市川猿之助一座に加入することが多く、復活狂言の悪婆の役柄で用いられた。中でも『瞼の母』の夜鷹は面白い傑作であった。
昭和58年2月、大阪梅田コマ劇場の猿之助公演『舟遊女』の小笹を演じた後、映像歌舞伎の『奥州安達原』の浜夕の撮影に向かう途中倒れ、懸命の療養を続けたが、その後、復帰は叶わず、昭和61年1月、72歳で不帰の人となった。若い頃の華やかさを思う時、関西歌舞伎の不振が原因とはいえ、晩年の不遇は、何ともわびしい。
【奈河彰輔】

経歴

芸歴

大正9年2月市村座『御所五郎蔵』の禿で中村蝶太郎を名乗り初舞台。中村もしほ(のち十七代目勘三郎)の許で修業し、昭和10年もしほと共に第一次東宝劇団に参加。昭和11年11月明治座『幡随長兵衛』の水野の腰元で名題昇進。昭和17年9月中座『土屋主税』のお園で幹部昇進。昭和18年2月『太十』の初菊、舞踊『梅ヶ枝』で十代目嵐雛助を襲名。映画『田之助紅』に主演。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定を受ける。

受賞

昭和33年大阪府民劇場奨励賞。

舞台写真