市川 三升 (5代目) イチカワ サンショウ
- 本名
- 堀越福三郎
- 俳名・舞踊名
- 俳名は夜雨または三笑
- 屋号
- 成田屋
- 定紋
- 三升、牡丹 (替紋)荒磯、蝙蝠、瓢
- 生没年月日
- 明治15(1882)年10月31日〜昭和31(1956)年02月01日
- 出身
- 東京・日本橋
プロフィール
30歳近くなっての志願なので、九代目市川團十郎門下の高弟たちは反対したが、当人の意志は固く、結局関西の大御所を頼って実現したという。中年からの転身のため、三升襲名後も目立った舞台は少なかったが、昭和5年11月には妻・二代目市川翠扇、義弟の五代目市川新之助とその娘・初代市川紅梅(三代目翠扇)ほか一門を集めて「三升座」を組織し新橋演舞場で15日間の公演を催している。昭和7年11月歌舞伎座で岳父・九代目團十郎三十年祭追遠興行が行われた時、宗家の当主として山崎紫紅作『解脱』を上演したのを手始めに、以後「歌舞伎十八番」の復活をライフ・ワークとして、これまで上演が絶えていた『不破』『象引』『七つ面』『押戻』『嫐(うわなり)』などをつぎつぎに手がけ、戦後の『蛇柳』によって全部の復活を完成させた。これには自身俳句や書画、音曲を嗜んだ教養と文人画家との交際が役立っていて、とくに楠瀬日年(なんせにちねん)と親交厚く、十八番ほとんどの舞台美術を担当したのは日年だった。
六代目尾上菊五郎や遠藤為春、川尻清潭らとは歓談仲間。とくに戦前、舞台に対する協力が多かったのは、市川宗家への劇壇の敬慕を示すものと考えられる。
昭和15年、七代目松本幸四郎の長男・九代目市川高麗蔵を養子に迎え、5月に九代目市川海老蔵を襲名させた。この海老蔵が三升の没後、直ちに十代目團十郎を追贈、昭和37年に自ら十一代目團十郎を襲名したのである。
【松井俊諭】
経歴
芸歴
実父は銀行家の稲延利兵衛。実父と同じく銀行に勤めていたが、明治34年九代目市川團十郎の長女・実子(二代目市川翠扇)と結婚し、市川宗家の養嗣子となる。義弟に五代目市川新之助がいる。明治43年10月初代中村鴈治郎の門人として大阪中座『東下り』(『岡山実記』の劇中劇)の業平と『曽我兄弟』(碧瑠璃園作)の五郎で本名堀越福三郎を名乗り初舞台。大正6年11月歌舞伎座の九代目團十郎十五回忌追善祭興行において『矢の根』の五郎で五代目市川三升を襲名。没後十代目團十郎を追贈。長男(養子)は十一代目團十郎。
著書・参考資料
昭和23年『鏡獅子』(二代目市川翠扇口述、市川三升編纂、芸艸堂出版部)、昭和25年『九世團十郎を語る』(市川三升著、推古書院)。