市川 新之助 (5代目) イチカワ シンノスケ

本名
堀越柳吉(旧姓谷内柳吉)
屋号
成田屋
定紋
寿字海老、杏葉牡丹
生没年月日
明治18(1885)年05月23日〜昭和32(1957)年01月13日
出身
東京・下谷

プロフィール

戦後の新派で女優としては初代水谷八重子に次ぐ存在だった三代目市川翠扇の父親。すなわち九代目市川團十郎の次女の夫で、九代目の女婿に当たるわけだが、舞台での活躍は初舞台から中年過ぎまで中芝居中心で、二枚目の役柄が多く、『石切梶原』や『直侍』などが得意芸だった。

大正6年11月歌舞伎座の九代目團十郎十五年祭の追善興行には二代目市川段四郎の弁慶、十五代目市村羽左衛門の富樫で『勧進帳』の義経を務め、その後、市川宗家の番頭格だった三代目市川新十郎をコーチにして市村座と演伎座をかけもちで出演し、演伎座で得意の『切られ与三』を演じたときには、両肌ぬぎで刀疵を見せる珍らしい型を見せている。昭和になってからも團十郎に関係深い興行には義兄の五代目市川三升(十代目團十郎追贈)とともに大歌舞伎へ出演するのを旨とし、7年11月の三十年祭追善興行には『助六』の福山、翌8年1月の同じく延長興行には『暫』の植生五郎(腹出しの1人)を務めた。

戦後は関西歌舞伎に移り、幹部の1人として老け役をほとんど専門とした。25年10月、九代目團十郎の文化切手が発売され、その記念興行が東京劇場で催されたとき、久しぶりに東上して『廿四孝』「筍掘り」の勘助母越路の役で存在を示している。その後も関西に定住したが、31年から菊五郎劇団に参加するようになり、3、5、6月の歌舞伎座に出演、7月には明治座で『切られ与三』の伊豆屋喜兵衛を務めたが、結局これが最後の舞台になった。
☆実生活で趣味は囲碁。信仰心の厚いことで有名だった。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

五代目市川小團次の門に入り、明治24年吾妻座『山姥』の金太郎で市川桃丸を名乗り初舞台。主に子供芝居に出演。明治31年1月より市川小若を名乗る。明治41年1月明治座「二代目市川左團次帰朝興行」にて名題昇進。同年4月明治座で二代目市川小文次を襲名。大正2年2月堀越家へ入籍(九代目市川團十郎の次女・堀越扶伎子【芸名・二代目市川旭梅】と結婚)し、同年5月帝劇『六歌仙』の業平で五代目市川新之助を襲名。前後を通じ主として中芝居で活躍したが、昭和24年関西歌舞伎に移り、昭和31年3月より菊五郎劇団に参加。

初舞台は明治25年3月浅草三崎座とする資料がある。また名題昇進も小文次襲名と同時とする資料がある。

舞台写真

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