中村 松若 (初代) ナカムラ ショウジャク

本名
重光重夫
屋号
扇駒屋
定紋
松葉いびし、花菱
生没年月日
明治39(1906)年09月13日〜昭和54(1979)年10月16日
出身
大阪府

プロフィール

初代中村鴈治郎付きの頭取重光峰太郎の子。中村松若とは、松竹白井松次郎会長の「松」と、鴈治郎の俳名扇若の「若」を合わせた生涯自慢の芸名であった。

文字通り成駒屋の門でたたき上げ、大阪の芝居で生き抜いた。鴈治郎を始め、上方大歌舞伎の古名優の舞台にじかに接した体験と記憶は貴重で、克明に型と演出(衣裳・かつら・小道具から下座までも)を書き写した松若メモ−台本−は、近代上方歌舞伎伝承の得難い財産になっている。

同時期の歌舞伎の名脇役といわれた人達は、若い頃に芯の役を経験したり、中小芝居の立者であったりした例が多いのだが、彼の場合は終生脇役に徹したところに特徴があり、独特の芸味の元がある。鴈治郎の芝居はもとより、上方狂言で占める松若の役割は大きく、古典新作を問わず、また善悪いずれもこなしたが、敢えて言えば柄を生かした端敵が本領であった。松若ならではの役々も数多いが、類型に止まらず、近松原作『堀川波の鼓』の磯部床右衛門など、近松のせりふをきちんと生かした上、歌舞伎味をふくらませた。同じ近松の『女殺油地獄』の白稲荷法印のいかにもそれらしい可笑し味なども余人には求められない。場合によっては演技過剰のそしりを受ける場合もあったが、それこそが上方の芝居の陰影を深める松若の芸であったと言って良い。

晩年は、上方歌舞伎の不振期と重なり、二代目中村鴈治郎は歌舞伎界を離れ、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)、林与一(初代鴈治郎の曾孫)も歌舞伎以外を本拠とするようになり、松若も随行することが多くなった。そんな中間演劇の舞台でもその知識と技量は大事にされ、大いに買われたが、ただ、上方風が骨の髄までしみこんだ絶後の脇役者としてより多くの役を見る機会が少なかったのは心残りである。せめても、昭和54年正月、歌舞伎座の二代目鴈治郎・二代目扇雀・十三代目片岡仁左衛門顔合わせの『心中紙屋治兵衛』「河庄」で、得意役の身すがら太兵衛が最後の舞台になったのは、近代上方脇役の代表松若の本領であっただろう。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

明治42年1月初代中村鴈治郎に入門、明治42年5月大阪堂島座『清水』の奴の扇平で中村いびしで初舞台。大正14年1月中村扇と改名し名題昇進。昭和 14年2月『石段曽我』の近江小藤太で中村松若と改名し幹部昇進(初舞台については、資料によって異同多く断定はできないが、明治43年11月大阪中劇場『冥途の飛脚』の丁稚三太というのが最も妥当のように思われる)。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

日々新聞社賞。大阪新聞社賞。大谷賞。昭和50年12月25日大阪市民文化功労賞。昭和53年記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に指定。

舞台写真

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