市川 滝三郎 イチカワ タキサブロウ
- 本名
- 米津富士太郎
- 屋号
- 高嶋屋
- 定紋
- 澤瀉
- 生没年月日
- 明治38(1905)年11月23日〜不明
- 出身
- 東京・神田
プロフィール
母が初代市川左團次の弟子で女役者だったから、3歳で初舞台を踏んだという。神田の三崎座で市川九女八(くめはち)を座頭(ざがしら)とする女役者の芝居に子役で出ていたが、母が新派に移るとき10歳で二代目左團次の門下となり、『寺子屋』の小太郎や『重の井子別れ』の三吉などもつとめている。昭和15年に左團次が亡くなってからは、映画に出たり、六代目市川寿美蔵(のちの三代目寿海)一座に参加したりしていたらしい。戦後、昭和27年に四代目市川男女蔵が三代目左團次を襲名したのを機に、高島屋一門に戻った。高齢になってからの印象は、温和で物静かで口数の少ない老優だった。世話物の町人や職人などをごく自然に演じて、主役の役者の邪魔にならずに、芝居の雰囲気をさりげなく出していた。波乱の役者人生で古典から新歌舞伎まで幅広くこなしてきたはずだが、その知識や経験をひけらかすこともなく、ごく自然に楽屋に座っている小柄で品の良い老人だった。生まれながらの役者で、それ以外の人生など考えたこともないという印象だった。
【浅原恒男】
経歴
芸歴
母は女役者。明治42年10月神田三崎座の『鈴木主水』の子役で市川富士夫を名乗り初舞台。大正3年1月二代目市川左團次門下となり、市川左市と改名。左團次没後は一時映画にも出演したが、その後歌舞伎に復帰し六代目市川寿美蔵(三代目寿海)の一座に加入。昭和27年5月、四代目市川男女蔵の三代目左團次襲名に際し、その門下となる。昭和30年7月東横ホール『伊勢音頭恋寝刃』の中間(ちゅうげん)小介で市川滝三郎と改名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。