市川 段猿 (2代目) イチカワ ダンエン

本名
大塚健一
屋号
澤瀉屋
定紋
巴澤瀉
生没年月日
大正7(1918)年06月15日〜平成8(1996)年11月06日
出身
東京・深川区

プロフィール

三代目市川猿之助(現・猿翁)一門の貴重な脇役で、舞台に立つことが好きだったので、立師(たてし)は兼務という立場を貫いた。新派の子役から歌舞伎に転向したとき、入門した二代目市川猿之助(初代猿翁)が松竹を飛び出す折だったので、二代目市川小太夫の新興座に初代段猿とともに参加し、昭和8年1月大阪・浪花座を皮切りに関西劇壇で活動。この時期に、中村成五郎からタテを学び、白井松次郎の勧めで立師も務める。二代目市川升太郎襲名後、空襲がひどくなったので芝居をやめる決心をして帰京したところ、二代目猿之助から頼まれて『一本刀土俵入』(昭和19年8月明治座)の立師を担当、それが気に入られ、そのまま猿之助の許に戻った。性格俳優で、普段から面白い珍優奇優であった。どんな役もこなすが、おおかたの記憶に残る役としては『箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)』の刎川求馬、『夏祭浪花鑑』の大鳥佐賀右衛門、『慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)』黒沢官蔵、『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』の番頭、『当世流小栗判官(とうりゅうおぐりはんがん)』の馬士四郎蔵などが挙げられる。勉強会では『太十』の光秀なども演じたが、お家騒動物で悪の一味の端敵や、一癖ありげな人物、三枚目などで個性的な味わいを発揮していた。立師としては、三代目市川段四郎が上演した『御摂(ごひいき)勧進帳』(二代目尾上松緑にも乞われて伝授)、『倭仮名在原系図(やまとがなありわらけいず)』の「蘭平物狂」、『義経千本桜』の「蔵王堂」などの大掛かりな立廻りが代表作。古典のタテに通じていたが、真山青果や岡本綺堂などの新歌舞伎における写実的な立廻りをはじめ、『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんかぢゃやむら)』の元右衛門、『独道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』の猫の怪とおくらなどの復活通し狂言や、『ヤマトタケル』などのスーパー歌舞伎で、三代目猿之助(現・猿翁)ならではのテンポの速いスリル満点の、見せる工夫いっぱいの立廻りを考案している。享年78。平成7年12月京都・南座『ぢいさんばあさん』の用人喜平が最後の舞台。

【金森和子】

経歴

芸歴

大正14年11月新派の伊井蓉峰に入門、同年12月松竹座『子は鎹(かすがい)』で泉晴一を名乗り初舞台。師の没後二代目市川猿之助(初代猿翁)の門下となり、二代目市川小太夫の新興座に参加、市川秀弥と名乗り初代市川段猿とともに大阪劇界に移る。昭和18年9月大阪歌舞伎座『天野屋利兵衛』の役人などで二代目市川升太郎と改名、名題昇進。昭和19年8月から初代猿翁のもとに戻る。昭和38年5月歌舞伎座『雪月花三重暗闘(せつげつかみえのだんまり)』の笠原湛海などで二代目市川段猿を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。猿之助一座の若手研究会「さつき座」を初代市川猿三郎らと旗揚げし、6回ほどの公演で古典歌舞伎や真山青果、岡本綺堂の作品などを上演した。三代目猿之助(現・猿翁)の許にて俳優として舞台に立つかたわら、立師も務めていた。

受賞

昭和60年歌舞伎座賞。

舞台写真

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