尾上 辰之助 (初代) オノエ タツノスケ

本名
藤間亨
俳名・舞踊名
舞踊名は五代目家元藤間勘右衛門
屋号
音羽屋
定紋
四ツ輪に抱き柏
生没年月日
昭和21(1946)年10月26日〜昭和62(1987)年03月28日
出身
東京都

プロフィール

四代目尾上菊之助(現・菊五郎)、六代目市川新之助(十二代目市川團十郎)とともに三之助と呼ばれて絶大な人気を集めていた頃、辰之助は70kgを越す健康的な青年で、舞台は明るかった。『勧進帳』なら弁慶、『寺子屋』なら松王丸、『車引』なら梅王丸、『元禄忠臣蔵』「御浜御殿」なら富森助右衛門と、柄の良さに加え明晰な口跡。踊り上手の点でも群をぬいた存在であった。昭和40年5月に父の二代目松緑が数日間『うかれ坊主』を休み、辰之助が代役したが、身体のきれの小気味いいこと、「しいたけさんやかんぴょうさん」の軽み、とても18歳とは思えぬ舞台に観客は大きな拍手を送った。

20代半ばに病気をしてから体重がかなり減り、舞台に陰影があると評されるようになった。しかし『夏祭』の団七九郎兵衛、『魚屋宗五郎』の宗五郎、『河内山と直侍』の直次郎、『髪結新三』の新三など、父の得意とした役を順調に自分のものにしていった。舞踊では『三社祭』の悪玉でこれでもかという動きをみせ、『土蜘』は妖気漂う鋭いものだった。『鏡獅子』の弥生だけは、馴れない女形舞踊に初日から何日たっても扇を持つ指先がふるえているのが、巧者にしてこの姿勢が好もしかった。

父の『オセロー』にイヤーゴー、『悪魔と神』にヘルマン、主演では『リチャード三世』『わが友ヒットラー』など、父に遜色のない活躍をしてきた。読書家で脚本の読みが深く、新作にもすぐれ『坂崎出羽守』の坂崎の鬱屈した心理、『暗闇の丑松(くらやみのうしまつ)』で恋女房お米のあまりに変り果てた姿に女の真実の底を見極めたやり場のない怒り……など、数々の佳演をみせた。時代物では菊五郎劇団が復活した『蘭平物狂』の蘭平で充分に動いて立廻りに妙味をみせ、また息子繁蔵との親子の情愛を深く感じさせて代表作とした。

昭和61年に大病で数ヵ月入院し、11月に復帰、12月、翌年1月と3ヵ月続けて舞台に立った。1月の『毛抜』の粂寺弾正では歌舞伎十八番の大らかさが舞台をつつみ、何かふっきれた様子を見せた。それからわずか2ヵ月、40歳での死は惜しみてもあまりある。最後の舞台は日本舞踊協会公演の『野路の梅』。さらりと踊りこなして、すっと旅立ってしまった。

【小宮暁子】

経歴

芸歴

二代目尾上松緑の長男。昭和27年2月歌舞伎座『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の鶴千代、『お祭佐七』の丁稚長太で初代尾上左近を名乗り初舞台。昭和40年5月歌舞伎座『寿曽我対面』の五郎、『君が代松竹梅』の松の君で初代尾上辰之助と改名。昭和47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第2次認定を受ける。昭和50年舞踊藤間流家元・五代目藤間勘右衛門を襲名。昭和44年訪米歌舞伎、昭和54年訪中歌舞伎、昭和59年訪米歌舞伎、昭和60年訪米歌舞伎に参加。没後遺児二代目左近が二代目辰之助を襲ぎ、平成14年四代目松緑を襲名するに際し、三代目松緑を追贈。

受賞

昭和50年芸術選奨新人賞。昭和54年11月『元禄忠臣蔵』富森助右衛門で国立劇場優秀賞。昭和59年7月第3回眞山青果賞。昭和60年6月、歌舞伎座「十二代目市川團十郎襲名披露興行(3~5月)」への3ヶ月に渡る出演に対し松竹社長賞。昭和61年12月歌舞伎座『白浪五人男』南郷力丸で見せた本格的な舞台復帰の演技に対し松竹社長賞優秀賞。

著書・参考資料

昭和48年『尾上辰之助』(現代若手歌舞伎俳優集4)(萩原雪夫編、日芸出版)。

舞台写真