澤村 田之助 (5代目) サワムラ タノスケ

本名
山中宗十郎
俳名・舞踊名
俳名は曙山
屋号
紀伊国屋
定紋
カン(金偏に丸)菊、波干鳥
生没年月日
明治35(1902)年10月11日〜昭和43(1968)年12月03日

プロフィール

大正から昭和初期にかけては父・七代目澤村宗十郎とともに帝国劇場に所属して、親ゆずりの容姿を生かし時代・世話の二枚目役を中心に新作や現代劇に至るまで幅広く活躍。昭和6年から約1年間、巌谷槇一とともに欧米を視察、帰国後は新宿第一劇場の青年歌舞伎で『切られ与三』などを演じたこともあったが、あとは父と同座して大一座に出演したり、新旧合同公演で初代水谷八重子はじめ多くの女優陣と共演するなど、多彩な活動を続けた。八重子の八重垣姫で『本朝廿四孝』「十種香」の勝頼を務めたこともあったが、この時代に傑作といわれたのは昭和11年2月明治座の『新薄雪物語』における園部左衛門で、相手の薄雪姫を演じた当時の六代目中村福助、後の六代目中村歌右衛門が往時を回顧して激賞していたものである。

戦時中は一時伊東に疎開。戦後、初代中村吉右衛門一座と行動を共にした時期もあったが、まもなくフリーとなり、菊五郎一座の若手俳優による「狂言座」の公演に参加した『里見八犬伝』の網干左母次郎と犬飼現八や吉右衛門の『梅の由兵衛』で金谷金五郎、三越劇場では『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』「引窓」の濡髪や『仮名手本忠臣蔵』の平右衛門、家の芸「高賀十種」の『紀伊国文左大尽舞』などで好演技を見せている。

昭和29年の暮に東横ホールが開場すると、その第1回公演に出演しているが、そのころから健康を害し、舞台に立つ回数も少くなった。昭和32年6月東横ホールで三代目中村時蔵の『切られお富』に与三郎を務めたあと、昭和35年まで時々軽い役で歌舞伎座に出たが、その後は療養を続けていた。

恵まれた柄を持ちながら、結局歌舞伎の第一線に立つことの叶わなかったのは、積極性に欠けていたことと大酒のために健康を損ったのが原因だろう。惜しまれる生涯だった。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

七代目澤村宗十郎の二男。兄に五代目助高屋高助、弟に八代目澤村宗十郎がいる。明治41年9月歌舞伎座『お祭佐七』の魚屋の小僧で三代目澤村由次郎を名乗り初舞台。大正9年1月帝劇『草摺引』の五郎で五代目澤村田之助を襲名、名題昇進。昭和39年4月長男に六代目田之助の名跡を譲り、俳名の曙山(しょざん)を名乗って引退する。二男は澤村六郎、三男は現・澤村由次郎。

舞台写真