中村 太郎 (2代目) ナカムラ タロウ

本名
吉野乾一
屋号
新駒屋
定紋
八重裏梅、かたばみ
生没年月日
昭和3(1928)年01月24日〜平成元年(1989)年05月21日
出身
大阪市

プロフィール

戦争たけなわの頃の初舞台、そして戦後と、十分な活躍は出来なかったが、昭和24年、次代の関西劇壇を受け継ぐべく、技芸を磨こうという意図で結成された〈つくし会〉に参加した。嵐鯉昇(後の北上弥太郎・八代目嵐吉三郎)、市川莚蔵(後の八代目市川雷蔵)などの中にあって、リーダー格であった。歌舞伎再検討を目指したいわゆる〈武智歌舞伎〉の第1回にも加わり、坂東鶴之助(現五代目中村富十郎)の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』「熊谷陣屋」では妻相模を、第2回公演では、實川延二郎(後の三代目實川延若)の『平家女護島』「俊寛」に丹波少将をつとめている。勉強次第では、順風を受けられる位置にいたのだけれど、私行でつまづいたのが元で、健康を損ない、昭和28年から、長期休演を余儀なくされた。昭和31年、吉野恵美蔵の名で、新春座に加入して舞台に復帰し、昭和32年8月、曾我廼家十吾の〈家庭劇〉の旗揚げに参加した後、昭和33年、やっと歌舞伎に戻った。関西劇壇の中堅として期待され、事実〈つくし会〉の後を受けた若手の勉強会〈松竹演劇塾〉では、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、『絵本太功記』「尼崎」の光秀、『河庄』の孫右衛門なぞの数々の座頭役を相応の出来でこなす力量を見せた。

しかし、昭和30年代半、関西歌舞伎が不振の期に入り、若手俳優は自主公演の型でしか発表の場を持てなくなってくると共に、気力、意欲が充分でなかったのだろうか、終わりには市川猿之助の一座に加わることが多く、昭和63年11月、大阪新歌舞伎座の猿之助公演で一寸顔を見せたのが、最後の舞台となった。

思えば、父の名成太郎は元より、直系の大名跡中村魁車(かいしゃ)の名を継ぐべき地位と実力を持ちながら挫折したのは、この人の心と身体のひ弱さの故であったと言わなければならないのは、如何にも辛い。秀樹、成記という二人の子がいて、子役として一時活躍したのだけれど、何時か廃業し、上方でおなじみの新駒屋の家の名も絶えた。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

父は二代目中村成太郎。昭和17年11月中村太郎を名乗り大阪歌舞伎座『忠臣蔵』七段目の太鼓持、『植木屋』の腰元で初舞台。昭和24年「つくし会」に参加。昭和24年12月武智歌舞伎の第一回公演に参加。昭和28年5月頃から一時病気療養。昭和31年吉野恵美蔵の名で新春座に加入し舞台復帰。昭和32年8月曽我廼家十吾の家庭劇の旗揚げに参加した後、昭和33年歌舞伎に復帰。昭和39年1月日生劇場『心中天網島』のみすがら太兵衛で準幹部昇進。昭和47年5月伝統歌舞伎保存会会員の第二次認定を受ける。

舞台写真