市川 中車 (8代目) イチカワ チュウシャ

本名
喜熨斗倭貞(きのし・しずさだ)
俳名・舞踊名
俳名は定花
屋号
立花屋
定紋
大割牡丹、片羽車
生没年月日
明治29(1896)年11月02日〜昭和46(1971)年06月20日
出身
東京・浅草

プロフィール

語りの巧い人だった。八代目八百蔵時代、戦後にはラジオドラマの名調子で好評を博している。

「この者は、乙女田杢之進の娘にて……」。『大石最後の一日』の堀内伝右衛門の名セリフである。磯貝十郎左衛門に恋した娘おみのの亡父の朋輩だった伝右衛門がおみのを男装させ、ひと目磯貝に会わせようとして大石に見とがめられて言うセリフだが、この一節には、ちょっとしたことで職を辞し浪人した親友の状況、おみのの一途な思いが絵のように浮かんでいた。中車の話芸の巧さだ。一徹な古武士の情味が滲み、観客の心にもしみる。『名和長年』の成田尭心が後醍醐帝とともに流された隠岐の島から脱出し、土地の豪族の将長年に身命を投げうって帝救出を説くときの悲壮な覚悟。そして老いさらばえた鬼神のような気迫。

いわゆる「中年からの役者」で苦労を重ねたが、壮年期には『勧進帳』の弁慶や『仮名手本忠臣蔵』の由良之助も勘平も演じて一応の評価もされ、実力派として認められていた。

兄の初代市川猿翁の一座から、吉右衛門劇団にも出演し、三代目中村時蔵の玉手で演じた合邦のような佳品もある。義太夫味はあり、何よりこの老人は名将青砥藤綱を父に持つ武士だったという気概が、娘のお辻(玉手)への思いと交錯して、芝居巧者の魅力溢れた熱演だった。『助六』なら意休、『東海道四谷怪談』なら直助権兵衛というように、重要なわき役や敵役、老役といった役どころを演じて、さすが中車だというキラリと光る個性と芸を見せた。

昭和36年に八代目松本幸四郎(初代白鸚)らとともに東宝へ移籍した。二代目中村吉右衛門襲名披露の御園座で『寺子屋』の玄蕃を演じたが、手強くべりべりとして大きかった。さすがに正使という格であった。その月はもう1つ、二代目中村鴈治郎の『土屋主税(つちやちから)』の其角を演じた。序幕で討入りの意思なしと源吾に失望して「よき友を失いました」のひと言の巧さ、後半の討入りの喜びの手一杯で品を落さない芝居なども鮮やかだった。十四代目守田勘弥・七代目尾上梅幸コンビの『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の通し上演の折の蝙蝠安の嫌らしい巧さも特筆したい。東宝劇団の副将的存在として幸四郎(初代白鸚)や若い六代目市川染五郎(現・白鸚)、中村萬之助(二代目吉右衛門)を盛り立てた。福田恆存作『明智光秀』の再演で演じた織田信長の鋭利な頭脳の癇癖ぶりなど、実力を示すものである。最後の舞台は珍しく二代目尾上松緑の『髪結新三』に招かれての大家だった。手強く因業で一癖も二癖もありながら市井の生活のバランスをとるという、江戸の昔にいたであろうこういう立場の老人像が鮮やかに見えた。新三なんぞ赤子の手をひねるような老獪さ。熱演であったが、家に泥棒が入ったと知らされてアタフタ戻る長兵衛の後ろ姿が少し疲れたように思わせたものである。その翌日に急死。見事な役者の見事な終焉だった。

【秋山勝彦】

経歴

芸歴

二代目市川段四郎の三男で、兄に初代市川猿翁、初代市川寿猿(昭和10年没)、弟に二代目市川小太夫がいる。九代目市川團十郎の門弟。大正2年7月山形朝日座『十二時会稽曽我』五郎丸で足ならしをし、同年10月歌舞伎座『象引』の奴光平で初代市川松尾を名乗り初舞台。大正5年3月七代目市川中車の名前養子となり、大正7年10月歌舞伎座『随市川鳴神曽我』一万丸で八代目市川八百蔵を襲名、名題昇進。昭和5年には研究劇団「大衆座」を組織、翻訳劇、創作劇を上演して2回の公演を行っている。昭和28年6月歌舞伎座『先代萩』八汐、『太十』光秀で八代目市川中車を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第1次認定を受ける。

受賞

昭和31年4月演劇出版社推賞。昭和34年芸術選奨。昭和43年4月勲四等瑞宝章。

舞台写真