市川 鶴之助 イチカワ ツルノスケ

本名
近藤恒吾郎
俳名・舞踊名
俳名は高鶴・鶴斎
屋号
高島屋
定紋
蟹蔦、三羽鶴
生没年月日
明治20(1887)年05月03日〜昭和31(1956)年01月26日
出身
大阪市

プロフィール

中芝居生活が長かった人で、とくに観音劇場や宮戸座では人気役者だったという。愛嬌があり、師匠右團次ゆずりのケレンと尾上卯三郎風の熱演をミックスした芸風で、立廻りにもすぐれ『慶安太平記』の丸橋忠弥や『高田馬場』の堀部安兵衛が当たり芸。ほかに『壺坂』の沢市、『川連館』の狐忠信、『鯉つかみ』の早替りなどを得意とした。昭和30年、大歌舞伎に戻ってからは老け役として、『野晒悟助』の白酒売(30 年7月東横ホール)『忠臣蔵』の吉田忠左衛門(同12月明治座)などを務めているが、翌年1月新橋演舞場の『文七元結』の遣手おかくを最後に故人になった。

日常では好人物で朗らかな性格だったとは、右團次門下の弟弟子市川福之助の言葉。鶴之助が大歌舞伎に戻ったのは、福之助の口利きだった(「演劇界」31年3月号に福之助の追悼の辞が載っている)。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

明治31年4月大阪中座『五大力』のたいこ持で市川鶴之助を名乗り初舞台。明治42年10月名題昇進。昭和7年6月五等俳優に昇進。この間、大正15年 11月より芸名を鶴之輔と改めたが、昭和7年9月からは元の鶴之助に復している。この頃から浅草の観音劇場で座頭兼太夫元として興行を打つ。観音劇場閉鎖後は巡業に出る。昭和30年、一時かたばみ座に在籍した後、市川海老蔵(のち十一代目團十郎)付として菊五郎劇団に加入。(なお、私家版ながら小宮麒一編『歌舞伎・新派・新國劇 配役総覧』第六版(平成11年11月刊)には、市川鶴之助東京各座出演記録が付せられているが、それによると昭和9年以降29年までの記録がないのは、この間休業または地方巡業に終始していたと思われる)

受賞

昭和7年6月俳優失業救済運動に勤め俳優協会長六代目尾上梅幸より感謝状を送られる。