澤村 訥子 (8代目) サワムラ トッシ
- 本名
- 鈴木大吉
- 俳名・舞踊名
- 俳名は訥子
- 屋号
- 紀伊国屋
- 定紋
- 丸にい、三羽鶴
- 生没年月日
- 明治20(1887)年11月06日〜昭和38(1963)年03月29日
- 出身
- 東京・浅草
プロフィール
東京浅草で魚商の子に生れる。明治30年代、澤村伝次郎時代、もっぱら浅草で、中芝居の人気二枚目役者として活躍した。昭和2年、師事していた七代目澤村訥子の女婿となり、その没後、八代目を襲名した。以後、二代目市川左團次一座、左團次没後は十五代目市村羽左衛門一座。戦時一時、尾上菊五郎劇団に在籍した後、関西歌舞伎に移った。
浅草時代は猛優の名をとどろかせた先代(七代目)訥子の芸風を受け継ぎ、派手な芝居で『鼠小僧』などを得意にしていたが、大劇場の人となってからは、粗っぽさはなくなり、神妙な、忠実な脇役に納まった。
関西歌舞伎では、老け役として貴重な役どころを占めた。三代目市川寿海の『梶原平三誉石切』では青貝師六郎太夫、『源平布引滝』「実盛物語」では瀬尾十郎などを持ち役として譲らなかった。若い時分の達者な芸が基礎になっているだけに、枯淡とか洒脱な味わいよりむしろ、堅実に役を掘り下げていくところに独特の面白さがあり、新作物に佳作が多かった。『春風帖』の葛飾北斎、『国定忠治』の日光円蔵、『大石最後の一日』の堀内伝右衛門などが、印象に残っている。
活躍の場が関西なのに、住居はずっと鎌倉で、大阪に出演の折には、浪花座の楽屋にあった松竹寮を宿所にしていた。晩年、科白の覚えが難しくなり、苦心惨憺していた様子を見る度に、生真面目な人柄にうたれた。舞台を離れたら温厚で寡黙な商家の大旦那風で、他の人の芝居は熱心に見たが、自ら思い出や芸談を語ることはめったになかった。昭和30年代に入り、関西での芝居がめっきり減ったため、最晩年はその芸に接する場が殆どなくなったのは、我人ともに遺憾であった。昭和38年、鎌倉で亡くなった時には、既に過去の人となった感があった。
【奈河彰輔】
経歴
芸歴
明治27年1月浅草座『寺子屋』の寺子で澤村大助を名乗り初舞台。明治31年1月浅草座で澤村伝次郎を襲名。明治44年9月帝劇専属となり名題昇進。昭和2年七代目澤村訥子の女婿となり、七代目没後、昭和2年7月歌舞伎座『絵本太功記』の佐藤正清で八代目澤村訥子を襲名。以後二代目市川左團次の一座に参加、左團次没後は十五代目羽左衛門一座に参加、戦後は一時菊五郎劇団に在籍し、その後フリーから関西歌舞伎に移る。