中村 成太郎 (2代目) ナカムラ ナリタロウ

本名
吉野乾太郎
俳名・舞踊名
俳名は斗紅、乾堂
屋号
新駒屋
定紋
丸にけんかたばみ、八重裏梅
生没年月日
明治33(1900)年09月01日〜昭和55(1980)年11月27日
出身
東京・深川

プロフィール

東京深川の生まれ。生家は玩具の楽焼を製造販売する浅草仲見世のむさし屋であった。明治45年、新富座での初代中村鴈治郎一座に加入し、『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の菅秀才を勤めたのが縁となり、大阪に移り、中村成太郎(後の中村魁車(かいしゃ))の養子となり、中村太郎を名乗るが、大正4年、養子縁組を解消し、改めて門弟となる。大正10年10月、中座で師の前名成太郎を二代目として襲名する。

美しく、行儀の良い舞台で、上方役者らしくない清潔で粘り気のない芸風がかえって好まれ、周囲の期待も大きく、花形役者としての地位を固めていった。二代目實川延若の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』「帯屋」の長右衛門で、お半を勤めるなどという大役もあったが、取り分けて中村扇雀(後の二代目中村鴈治郎)の相手役として用いられ、『恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)』「封印切」の梅川などで評判を取り、贔屓も多かった。邦劇座・五色座・同士座・第一劇場などの新しい研究劇団にも積極的に加わる情熱も見せた。

しかし、生来の病弱がこの人の不運で、昭和27年からの長期休演の後は、復帰休演を繰り返すようになった。依然としてファンの支持は強く、仁に合った役−新作物に案外多かった−では、得がたい味を見せたものの、次第に往年の覇気が失せ、辛うじて『封印切』や『廓文章』「吉田屋」の内儀役で存在感を示すに止まった。老け役はうつらず、晩年の『義経千本桜』「鮨屋」の婆などでは、戸惑いがちだった。おっとりとした役者らしい性格だったが、反面意固地な面も合わせ持っていた。病気と当時の歌舞伎不振が重なり、休演が多かったが、自宅でたくさんの小鳥を飼うのに没頭しているように見せていた。早くに魁車を襲ぐべき地位にありながら、大成しなかったのは、自他ともに残念である。それにしても、昭和53年、中座の『仮名手本忠臣蔵』の七段目の仲居が最後の舞台となり、3年後に世を去ったのは、若い頃の花形時代を思うといかにも淋しい。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

明治43年10月市川介十郎門下となり、寿座『ぶどうの酒』の小姓で市川介六を名乗り初舞台。明治45年2月新富座にて中村鴈治郎一座に加入。大正2年大阪に移り、中村成太郎(のち魁車)の養子となり大阪・浪花座『五郎正宗』で初代中村太郎と改名。その後病気で一時帰京したが16歳の時再び関西へ帰り、大正8年名題昇進。邦劇座、研究座、五色座、同志座、第一劇場、片岡少年劇「次の時代の会」等に活躍。大正10年10月二代目中村成太郎を襲名。昭和27年より病気で二年間休演した後復帰。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定を受ける。長男は二代目中村太郎。

受賞

昭和48年4月勲五等瑞宝章。昭和49年11月25日大阪市より市民表彰受賞。昭和50年8月28日日本演劇協会より感謝状を授与される。

舞台写真

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