片岡 松之亟 (初代) カタオカ マツノジョウ

本名
宮塚釗
屋号
松島屋
定紋
松葉菱
生没年月日
明治42(1909)年07月31日〜昭和55(1980)年08月11日
出身
静岡県天竜市

プロフィール

静岡県天竜市二俣の生まれ。父はカーテンやテーブルかけのレースを製造する工場の経営者で、教職にあったこともあるという。昭和8年、松本京之助を名乗り、当時の師匠二代目松本錦吾とともに関西歌舞伎に所属していたが、昭和13・14年頃、市川荒太郎と組み、地方廻りをしたところ、大いに喜ばれたので、松竹を離れ、新鋭歌舞伎を結成する。一座には片岡秀郎・中村福太郎・中村雁之助などの腕達者が揃っていたが、娘方として活躍し花形として人気を得た。折から戦時中で、娯楽の少なかったこともあり、劇団も各地で好評を得た。本人も最も情熱を燃やしていた頃だと言っている。荒太郎が若くして亡くなり、一座も解散し、終戦を迎えた。新鋭劇団当時から知遇を得ていた四代目中村富十郎の紹介で、昭和27年、十三代目片岡仁左衛門に入門し、片岡松之亟と改名する。

以後、関西歌舞伎の中堅として、数は多くないが脇の女方の役々で手堅い実力を見せた。小柄で端麗な容貌は、娘方にぴったりだったが、それだけに役どころは狭く、晩年になっても老け役は好まなかった。『夏祭浪花鑑』では、傾城琴浦や道具屋の娘お仲を持ち役とし、三婦の女房おつぎは、すすめても受けなかった。せいぜい花車方(かしゃがた)までで、それ以上老けることは拒んだ。性格は至って温厚で、出過ぎず、師匠顔をすることはなかったが、問われれば答える良き女形の指導者だった。昭和55年6月、中座で『鳥辺山心中』の仲居お花を最後に、静かに逝った。現片岡當十郎は養子である。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

大正10年10月吾妻英三郎を名乗り天竜市二俣にあった花岡劇場で『弁慶上使』の信夫を務め初舞台。大正14年6月(大正13年とする資料あり)二代目松本錦吾に入門して松本京弥と改名。昭和8年1月松本京之助と改名、師匠とともに関西歌舞伎に所属する。昭和16年劇団新鋭歌舞伎を組織し娘方として活躍したが、一座は終戦前に解散。四代目中村富十郎の紹介で昭和27年3月十三代目片岡仁左衛門に入門して片岡松之亟と改名。昭和29年1月名題昇進。昭和34 年9月準幹部昇進。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定を受ける。

受賞

努力賞2回、奨励賞2回。

舞台写真

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