坂東 三津五郎 (7代目) バンドウ ミツゴロウ

本名
守田寿作
俳名・舞踊名
俳名は是好、舞踊名も七代目坂東三津五郎
屋号
大和屋
定紋
三ツ大、花かつみ
生没年月日
明治15(1882)年09月21日〜昭和36(1961)年11月04日
出身
東京・京橋

プロフィール

市村座に入ったときは若手歌舞伎一座の座頭(ざがしら)だったが、まもなく六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門が入座して毎月の企画がこの2人を中心に運ばれるようになったため、自然とその下風に立たなければならなくなった。短躯で童顔、悪声で声量にも恵まれなかった点、花形の条件に乏しかったからであろう。しかし、明治の名人たちから直接学んだ芸の蓄積は抜群で、『御所桜堀川夜討』の藤弥太、『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』「吃又」、舞踊で菊五郎とのコンビによる『三社祭』『棒しばり』『太刀盗人』などは、この時代から名舞台として賞讃されたものである。

松竹に所属してからも配役の面では決して十分とはいえず、1興行中の主体の演目ではワキに回ることが多かったが、舞踊の面では坂東流の家元として定評のある絶妙の技術を発揮した。流祖三代目三津五郎以来の家の芸の『傀儡師(かいらいし)』『源太』『子守』などのほか、『文屋』『大原女』『座頭(ざとう)』『舌出し三番』『靫猿(うつぼざる)』『どんつく』などの軽妙洒脱な踊りは独壇場の感があり、大向うから「踊りの神様」と声がかかることも珍らしくなかった。代表的な当たり芸『喜撰』は、昭和24年10月記録映画に撮影されている。

演出の様式による多彩なせりふ廻し、舞踊の地音楽や形態の種類による微妙な踊り方の違いなどを正確に判別できる稀有の人で、戦後は劇界随一の博識者として尊敬を集めた。福徳円満、超俗したような人柄で知られたが、それは待遇の上で長いあいだ忍従の日を送り、昭和の初期には家庭の事情により借金を抱え、破産寸前に追いこまれたという、辛酸を乗り越えて到達した境地だといわれる。

昭和32年9月歌舞伎座で長男・六代目坂東簑助(八代目三津五郎)と舞踊『寒山拾得(かんざんじっとく)』を共演したのが最後の舞台。公演中、6日目に自宅で倒れ、それから4年の療養を続けたあとの他界だった。

【松井俊諭】

経歴

芸歴

十二代目守田勘弥の長男。弟に十三代目勘弥(昭和7年没)がいる。明治22年10月桐座(新富座)『伊達競阿国戯場』「先代萩」の鶴喜代で二代目坂東八十助を名乗り初舞台(国立劇場発行『歌舞伎俳優名跡便覧』によると明治19年1月から22年1月まで坂東のし丸の名で出演している)。四代目中村芝翫、九代目市川團十郎らの薫陶を受ける。明治39年4月歌舞伎座『吉野山雪の故事(ふるごと)』「女夫狐」の塚本狐で七代目坂東三津五郎を襲名。明治40年、田村成義の肝入りで市村座の専属となり、六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らと共に技を競ったが、大正10年吉右衛門に続いて市村座を脱退。以後は長く松竹の傘下に属して、戦後、同輩の菊五郎・吉右衛門没後も劇界の長老として活躍した。長男(養子)は八代目坂東三津五郎。

受賞

昭和23年8月日本芸術院会員(第3部舞踊分科)。昭和25年芸術選奨。昭和30年重要無形文化財保持者(人間国宝・歌舞伎舞踊部門)に認定。昭和35年文化功労者に選定。没後従四位に叙せらる。

著書・参考資料

昭和12年『舞踊藝話』(坂東三津五郎述、利倉幸一・坂東簑助編著、建設社)、昭和24年『三津五郎芸談』(坂東三津五郎述、井上甚之助著、和敬書店)、昭和25年『三津五郎舞踊芸話』(坂東三津五郎述、利倉幸一編、和敬書店)、昭和27年『坂東三津五郎舞台写真集』(菱田正男編、舞台すがた社)、昭和34年『坂東三津五郎代々』(七世坂東三津五郎著、演劇出版社)、昭和38年『父三津五郎』(八代目坂東三津五郎述、小島二朔編、演劇出版社)、昭和52年『七世三津五郎 舞踊藝話』(利倉幸一編著、演劇出版社)など。

舞台写真