市川 雷蔵 (8代目) イチカワ ライゾウ

本名
太田吉哉(旧姓竹内嘉男)
屋号
升田屋
定紋
三升に雷、いばら牡丹
生没年月日
昭和6(1931)年08月29日〜昭和44(1969)年07月17日
出身
京都

プロフィール

三代目市川九團次の養子、三代目市川莚蔵は、終戦後初舞台を踏んだ、普通の、あえて言えば凡庸な役者だったが、昭和24年立ち上がった「歌舞伎再検討のための公演」(いわゆる武智歌舞伎)の第2回公演で、持役の『道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)』の求女(もとめ)と、病気休演の二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)の代役『平家女護島』「俊寛」の千鳥で、彗星のように輝きだした。容姿に優れ、調子(せりふ)が明晰なので、たちまち人気若手花形となった。これがきっかけになり、当時関西の座頭(ざがしら)であった三代目市川寿海との養子縁組が整い、昭和26年、八代目市川雷蔵を襲名する。その後も順調な歩みを続けていたのだけれど、扇雀、坂東鶴之助(現中村富十郎)などの俊秀が一座に揃っていたものだから、十分に驥足(きそく)を展(の)ばせず昭和29年、大映よりの誘いを受け、映画の世界に転進する。以後の活躍は目覚しく、映画界の貴公子としてスターダムに駆け上がった。生涯の出演映画は153本。娯楽映画から、芸術作品まで、数々の話題作に主演し、主な映画賞を総なめにし、雷蔵独自の、確固たるスターの地位を築いた。

舞台への意欲も衰えず、昭和35、40、41年の3回大阪新歌舞伎座で、また昭和39年には日生劇場に出演している。大阪新歌舞伎座では、劇中劇の『鈴ヶ森』、『将軍江戸を去る』、『獄門帳』を養父・寿海と共演し、その指導で『番町皿屋敷』の青山播磨を演じている。日生劇場では『勧進帳』の富樫と、石原慎太郎の新作に挑み、舞台役者としても高い評価を受けた。その後も、映画はもとより、舞台の予定も、びっしり詰まっていたが、雷蔵畢生の夢は、自分の劇団を持つことで、新劇団『鏑矢(かぶらや)』の結成を発表し、第1回公演の準備を始めていたのだが、その頃、病魔が既に進行していて、昭和44年春、入院せざるを得なくなり、同年7月17日、37歳の若さで世を去った。念願は遂に永遠の夢になった。

もし、齢を重ね、舞台を続けていたら…、今日の演劇界に、もちろん歌舞伎の世界にも、計り知れぬ波紋を残し、大きな足跡をとどめていただろう。痛惜極まりない最後である。

【奈河彰輔】

経歴

芸歴

生後6ヶ月で三代目市川九團次の養子となり、昭和21年11月大阪歌舞伎座『中山七里』のお花で三代目市川莚蔵を名乗り初舞台。昭和26年4月三代目市川寿海の許へ養子縁組。同年6月大阪歌舞伎座『白浪五人男』の赤星十三郎で八代目市川雷蔵を襲名。昭和29年大映入社、『花の白虎隊』で映画デビュー、『大菩薩峠』『眠狂四郎』シリーズなど数々の映画に主演し一躍スターとなる。昭和39年1月日生劇場『勧進帳』富樫で久々に舞台に出演。

受賞

昭和33年キネマ旬報賞。ブルーリボン男優主演賞。

著書・参考資料

平成7年『雷蔵、雷蔵を語る』(市川雷蔵著、飛鳥新社、平成15年 朝日文庫、朝日新聞社)、令和3年『歌舞伎役者 市川雷蔵-のらりくらりと生きて』(大島幸久著、中央公論新社)

舞台写真

写真をクリックすると拡大画像をご覧いただけます