中村 勘三郎 (18代目) ナカムラ カンザブロウ

本名
波野哲明
俳名・舞踊名
舞踊名は藤間勘暢
屋号
中村屋
定紋
角切銀杏、舞鶴
生没年月日
昭和30(1955)年05月30日〜平成24(2012)年12月05日
出身
東京都

プロフィール

 銀の匙をくわえて生まれるという外来の成句があるが、十八代目中村勘三郎はまさにそれだったといってよかろう。父の十七代目勘三郎は前半生は曲折ある役者人生を送った人だが、十八代目が誕生した時は、すでに赫々たる名声に包まれていた。時代も、もはや戦後ではないと経済白書が宣言する豊かな社会に向おうとしていた。満4歳を目前にした初舞台は現上皇である皇太子御成婚で日本中が賑わうさなかだったが、五代目中村勘九郎の桃太郎に父の勘三郎が鬼ヶ島の鬼の役、八代目松本幸四郎(のち初代白鸚)と六代目中村歌右衛門が共演するという、こちらも祝賀ムードの舞台だった。

 御成婚の中継放送を機に飛躍的に普及したテレビは、可愛くもやんちゃな名子役ぶりを発揮する「勘九郎坊や」を、一躍、全国規模の有名人にした。勘九郎坊やはテレビという媒体でスターになった最初の歌舞伎俳優であったかも知れない。満8歳の時、同年輩の子役たちと共に『白浪五人男』の勢揃いの場を歌舞伎座の本興行で演じた時、弁天小僧を十代目坂東三津五郎の五代目八十助に敢えてゆずって、自分は南郷力丸をつとめた。いなせな南郷の方に着眼する幼にして非凡な役者心が、人々を微苦笑させた。

 八十助とはその頃からライバルと目されたが、実は子役としての勘九郎は、典型的な子役の役はほとんど演じていない。当時親ばかの代表のように見られた父の十七代目だったが、実は慎重にわが子の成長に心を配っていたことがわかる。七代目尾上梅幸の重の井でつとめた三吉をほぼ唯一の例外として、歌右衛門のお辻で『志渡寺』の坊太郎、十七代目が復活上演した『加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)』の志賀市など、達者というより役になり切る感性で見る者を驚嘆させた。

 子役の年齢から脱した勘九郎が、成長した姿で驚かせたのが13歳で父と踊った『連獅子』だった。当時、東京都の教育長もつとめた高名な教育家が、勘九郎の芸への取り組み方に感心して、これぞ理想的な親子の在り方であると語ったのがニュースになったりした。さらに『時今也桔梗旗揚』「馬盥」の桔梗、『野崎村』のお光、『鞍馬獅子』の卿の君、『仮名手本忠臣蔵』「四段目」の力弥、『東海道四谷怪談』の与茂七など、俊英ぶりを発揮しながら花形として順調な成長を見せていたと思われた勘九郎だが、実は腕を撫して口惜しい思いで過ごした日々であったことを、他日、本人の口から聞いたことがある。10歳余りの年齢差がある上の世代と差別されることへ、激しい闘争心を剥き出しにした口吻に接したこともあった。

 そうした鬱懐を晴らす機会として巡ってきたのが、平成の世になって早々に始まり爾来20年にわたって毎夏8月の歌舞伎座の恒例となった納涼歌舞伎だった。子役時代以来の盟友三津五郎と相結んでの奮迅の活躍は、歌舞伎座が1年12カ月すべてを歌舞伎で開けるという空前の歌舞伎ブームを到来させた。納涼歌舞伎で演じた役々は、ほとんどそのまま、勘三郎一代を代表する当り役となったが、その一方、テレビでも「今宵も勘九郎」といったレギュラー番組を通じて多くの視聴者をファンに転じさせ、歌舞伎の伝道師と呼ばしめた。

 平成6年に始まった渋谷のシアター・コクーンでのコクーン歌舞伎では新劇人串田和美と結んで、『四谷怪談』『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』『夏祭浪花鑑』『三人吉三』『桜姫』等々といった作品を、ブレヒト流の串田の演出で在来の歌舞伎の演出とは全く異なる新演出を試みた。また野田秀樹と結んで、こちらは歌舞伎座の本興行として『野田版・研辰の討たれ』『野田版・鼠小僧』など、歌舞伎の旧作を新奇な発想と装いとで甦らせた。歌舞伎外の演劇人が歌舞伎の舞台に関わることは夙に珍しいことではなくなっていたにも関わらず、新奇な試みとしてマスコミが取り上げたのは、勘三郎の姿勢に、在来にない新しいものを察知したからだろう。

 更に21世紀の幕開けと同時に、組立式の仮設劇場という、従来誰も考えつかなかった発想から平成中村座を立ち上げた。どこへでも建設できるこのユニークな劇場は、昔の芝居小屋の空間を取り戻して歌舞伎のライヴ感覚を現出しようというもので、その発想の原点は高校生の時に見た唐十郎の紅テントにあった。江戸歌舞伎の中村座の座主の名に由来する中村勘三郎の名を平成の世に継ぐ者として、自分の求める歌舞伎を実現するための劇場を持とうとしたのだった。東京の浅草、隅田河畔、大阪からニューヨークまで、平成中村座は出現し、勘三郎は文字通り体を張った演技で観客を熱狂させた。

 だが一方、勘三郎は、尊敬する先達から教えを受けた古典の役々を演じる際は、その求めるところを求める古典主義者だった。『鏡獅子』は20歳ではじめて踊って以来、祖父六代目尾上菊五郎の芸境に迫ろうとし続け、七代目梅幸の教えを受けた『鈴ヶ森』の権八、『仮名手本忠臣蔵』の判官など、本領とする和事味のある二枚目の役々は、一挙手一投足も疎かにすることなく教えを守り続けた。

 こうして、攻守二元の道を求め続けた勘三郎は、道半ばで病に倒れ、50代の若さで世を去った。天は何故、その芸の完成を待たなかったのだろうか?

【上村以和於】

経歴

芸歴

十七代目中村勘三郎の長男。昭和34年4月歌舞伎座『昔噺桃太郎』の桃太郎で五代目中村勘九郎の名で初舞台。昭和54年4月伝統歌舞伎保存会会員の第5次認定を受ける。平成17年3~5月歌舞伎座『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』の一條大蔵卿、『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子などで十八代目中村勘三郎を襲名。長男は現・勘九郎、二男は現・中村七之助。

受賞

平成元年度芸術祭賞、都民文化栄誉章。平成2年と10年に眞山青果賞大賞2度の受賞。平成6年第2回読売演劇大賞最優秀男優賞。平成10年度日本芸術院賞。平成13年第23回松尾芸能大賞、第39回ゴールデンアロー賞演劇部門。平成14年第1回朝日舞台芸術賞。平成16年第52回菊池寛賞。平成20年紫綬褒章。歿後旭日中綬章、浅草芸能大賞特別功労賞を贈られる。ほか多数。

著書・参考資料

昭和62年『中村屋三代役者の青春』(中村勘九郎著、講談社)、平成3年『勘九郎とはずがたり』(中村勘九郎著、集英社、平成6年 集英社文庫)、平成4年『役者は勘九郎 中村屋三代』(関容子著、文藝春秋)、同年『勘九郎芝居ばなし』(中村勘九郎語り、小田豊二聞き手、落合高仁写真、朝日新聞社)、同年『勘九郎ひとりがたり 中村屋歳時記』(中村勘九郎著、集英社、平成9年 集英社文庫)、平成6年『待ってました!勘九郎 中村勘九郎対談集』(中村勘九郎著、文藝春秋、平成10年 集英社文庫)、平成7年『中村屋三代記―小日向の家』(中村勘九郎ほか著、集英社、平成10年 集英社文庫)、平成11年『勘九郎ぶらり旅 因果はめぐる歌舞伎の不思議』(中村勘九郎著、集英社)、同年『歌舞伎ッタ!』(中村勘九郎著、アスペクト)、平成12年 『中村勘九郎写真集 法界坊』(荒木経惟撮影、ホーム社)、平成16年『勘九郎日記「か」の字』(中村勘九郎著、集英社、平成19年 集英社文庫)、平成17年『さらば勘九郎-十八代目中村勘三郎襲名』(小松成美著、幻冬舎)、同年『新しい勘三郎 楽屋の顔』(関容子文、下村誠写真、文藝春秋)、同年『十八代目中村勘三郎襲名記念写真集』(中村勘三郎著、篠山紀信撮影、小学館)、同年『襲名十八代―これは勘三郎からの恋文である』(中村勘三郎著、小学館)、平成19年写真集『魂 TAMASHii Mick Rock meets Kanzaburo』(ミック・ロック撮影、アシェット婦人画報社)、平成25年『十八代中村勘三郎』(中村勘三郎著、小学館)、同年『十八代目中村勘三郎』(篠山紀信撮影、世界文化社)、同年『十八代目中村勘三郎の芸-アポロンとデュオニソス』(山本吉之助著、アルファベータ)、同年『中村勘三郎物語-継がれゆく情熱と家族の絆』(生島惇構成、塚田圭一監修、フジテレビドキュメンタリー取材班協力、扶桑社)、同年『中村勘三郎最後の131日-哲明さんと生きて』(波野好江著、集英社)など多数。

舞台写真

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