河原崎 権十郎 (3代目) カワラサキ ゴンジュウロウ

本名
長谷真佐一
俳名・舞踊名
俳名は紫扇、舞踊名は藤間勘喜郎
屋号
山崎屋
定紋
八つ花菱に二つ巴、菱宝結び
生没年月日
大正7(1918)年02月11日〜平成10(1998)年02月18日
出身
名古屋市

プロフィール

“権ちゃん”“権さま”の愛称で芝居仲間にもファンにも親しまれた。若い頃は女方が多かったが、渋谷の東横ホールで十一代目市川團十郎の当たり役を演じて、“渋谷の海老さま”と言われた。父二代目権十郎が若き日に“浅草の羽左衛門”と呼ばれて人気者だったというから面白い。大きな目、高い鼻の二枚目だった。テレビのスタジオ録画で『切られお富』のお富と与三郎の二役を演じて、悪婆(あくば)と二枚目の両方ともに綺麗で色気があって本役だった。実力があったから後進にも頼られた。『雪暮夜入谷畦道』で、かつて本役だった直侍を若手にゆずって自分は按摩の丈賀にまわり、『石切梶原』の梶原平三が大庭や六郎太夫にと、若手花形を育て、指導した。立役から女形、老け役まで、まさに老若男女善悪兼ねられる貴重な存在だった。『紫扇まくあいばなし』は聞書きの名著だが、中でも代役の数の多さには驚くばかり。それだけ器用で芸の幅が広く、やれば一応に納得させられるだけの実力派であったということだろう。中で白眉は二代目尾上松緑の『オセロー』の代役だ。黒く塗った顔の下はきっと真っ赤に上気していたに違いない。よくやりおおせたものである。中村歌右衛門を相手に『仮名手本忠臣蔵』九段目の本蔵や、『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の八汐をつとめるというすごさ。八代目市川中車が松緑の『髪結新三』で大家を演じていて急死したときも、偶然隣りの小劇場に来ていたこの人を引っ張り出して穴を埋めた。やったことのない役どころだったから、苦労は察せられるが、そういう積み重ねが、権ちゃんの信用となり、真骨頂だったのである。

【秋山勝彦】

経歴

芸歴

二代目河原崎権十郎の二男で、兄に三代目河原崎権三郎(昭和5年没)がいる。昭和10年3月河原崎薫を名乗り新宿第一劇場『二人道成寺』所化で初舞台。昭和21年5月東劇『喜撰』の所化で四代目河原崎権三郎を襲名。昭和26年松竹三十周年記念映画『大江戸五人男』(阪東妻三郎主演)に出演。昭和30年1月尾上菊五郎劇団正会員となる。昭和31年3月歌舞伎座『身替座禅』太郎冠者、『毛抜』秦民部で三代目河原崎権十郎を襲名。昭和40年4月伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定を受ける。昭和39年ハワイ公演、昭和42年サンフランシスコ公演、昭和54年中国公演に参加。

受賞

昭和16年10月『桐一葉』の代役で大谷社長賞。昭和54年12月『ひらかな盛衰記』権四郎で国立劇場優秀賞受賞。昭和56年3月『延命院』役僧柳全で国立劇場優秀賞受賞。昭和59年5月『水天宮利生深川』安蔵で松竹社長賞。昭和60年6月十二代目市川團十郎襲名披露興行三ヵ月に亘る出演に対して松竹社長賞。平成2年第14回山路ふみ子賞文化賞。同年5月歌舞伎座『伽羅先代萩』栄御前、『芝浜革財布』大家長兵衛にて松竹社長賞。平成3年11月勲五等双光旭日章。平成4年3月芸団協功労者表彰。平成5年5月『車引』藤原時平にて松竹会長賞。平成6年2月浅草公会堂前の「スターの広場」に手形が設置される。平成7年2月歌舞伎座『假名手本忠臣蔵』石堂右馬之丞にて松竹会長賞。

著書・参考資料

昭和62年芸談『紫扇まくあいばなし』(土岐迪子聞書、演劇出版社)。

舞台写真