中村 吉右衛門 (2代目) ナカムラ キチエモン

本名
波野辰次郎
俳名・舞踊名
俳名は秀山、ペンネームは松貫四(まつかんし)
屋号
播磨屋
定紋
揚羽蝶、村山片喰
生没年月日
昭和19(1944)年05月22日〜令和3(2021)年11月28日
出身
東京都

プロフィール

卓越した台詞術と役の真髄を捕らえる感情表現、そして大きな舞台ぶりを兼ね備えた立役であった。初代松本白鸚(九代目幸四郎)の次男に生まれたが、母方の祖父・初代吉右衛門に跡取りとなる男児がいなかったため、幼くしてその養子となった。
初代は明治19(1886)年、自身は昭和19(1944)年生まれ。年譜を見れば、明治から昭和にかけての歌舞伎界屈指の名優の初代が、自分と同年で、どんな役を演じていたかが一目瞭然であった。若き日は自身の置かれた状況と比較して苦しんだこともあったという。
初代白鸚のもとで修業を積み、白鸚や兄の現・白鸚と共に所属会社を松竹から東宝に移し、吉右衛門を二代目として襲名した。それからは初代が1代で大きくした吉右衛門の名にふさわしい俳優となるための努力を続けた。
東宝時代は『赤と黒』のジュリアン・ソレルや『雪国』の島村など現代劇でも活躍したが、歌舞伎に打ち込みたいという思いが募ったため、父や兄に先駆けて松竹に復帰した。また2歳違いで若いころは容姿が似て役どころも重なることの多かった兄の現・白鸚と異なる芸域を開拓しようと、時には尾上菊五郎劇団の公演にも加わった。世代的に近い、現・菊五郎、初代尾上辰之助(三代目松緑追贈)、十二代目市川團十郎らと同座して切磋琢磨し、六代目菊五郎に師事した父方の叔父・二代目尾上松緑にも教えを請い、世話物の呼吸を学んだ。
実父、教えを請うた二代目松緑や十七代目中村勘三郎、さらには映像や録音に残る初代の演技をひたすらまねた。それが完璧に出来るようになってから次の段階に入った。
「個性はほうっておいても出てくるものです。最初は個性を抑え、あるレベルに達して初めて自分の個性をプラスする。すると単なるコピーでないものが生まれてきます。時代物風に言うか、世話物のような調子で台詞を口にするか。最初はその差ぐらいしか、僕にはわかりませんでした。何度も何度も先輩の演技を拝見し、自分でやってみている間に段々と、なぜこの台詞回しをしていたのか、なぜここを大時代に言い、こちらは早く運んだのかといったことがわかってくるようになりました」と語っていた。
多くの当たり役がこうして生まれた。義太夫物では『俊寛』、『熊谷陣屋』の熊谷直実、『盛綱陣屋』の佐々木盛綱、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助、『義経千本桜』の平知盛、『寺子屋』の松王丸、『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』、『引窓』の南与兵衛などで英雄や悲劇に見舞われる人物の情感を活写し、世話物では『幡随長兵衛』、『河内山』、『夏祭浪花鑑』の団七九郎兵衛などを現実感をもって描き出した。主人である義経への強い思いを感じさせる『勧進帳』の弁慶も忘れがたい。
近年演じられることの少なかった『伊賀越道中双六』の「岡崎」を復活上演(平成26(2014)年12月、国立劇場)した際には唐木政右衛門を勤め、作品全体にも細かい目配りをして評判を取るなど、歌舞伎のレパートリーを増やすことにも積極的であった。
その表れのひとつが、『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の作者でもある先祖の名にちなんだ松貫四(まつかんし)の筆名で新作歌舞伎『藤戸』『巴御前』『日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)』『閻魔と政頼(せいらい)』などを創作したことだ。令和2(2020)年8月には『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』に着想を得た独白形式のひとり芝居『須磨浦』を書き下ろし、自身の出演により観世能楽堂で無観客収録し、映像配信した。病に倒れ、出演こそならなかったが、令和3(2021)年5月に歌舞伎座で上演された『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』も初代が佐藤正清を演じた際の資料をもとに自身が補綴した作品であった。
江戸の風情を残す芝居小屋「旧金毘羅大芝居」(香川県琴平町)での「四国こんぴら歌舞伎大芝居」発足の端緒を作ったひとりでもあった。昭和60(1985)年の第1回公演では、松貫四名で清玄桜姫物の『再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)』の筆を執り、自身が清玄と奴浪平の2役を勤めた。
平成18(2006)年9月に歌舞伎座で初代の俳名を冠した「秀山祭」を始めたのも、そうした思いからで、歌舞伎座建て替え期間中の新橋演舞場公演などを挟んで令和元(2019)年9月の歌舞伎座公演まで続けられ、前に挙げた役のほかに『沼津』の十兵衛、『逆櫓』の松右衛門などの当たり役を見せた。
「初代吉右衛門という素晴らしい役者がいたことを皆さんに知っていただくのが養子としての僕のつとめです。初代の考えた演出を大事にし、役に対する心構えを、志を同じくする人に引き継いでほしい」と思いを語っていた。
苦闘の時期を過ごした末に、「60代になって歌舞伎を天職と実感するようになった」と話していた。常々口にしていたのが、「歌舞伎は未完成の芸術で、もっと完成度の高いすばらしいものにできるはずだ」ということ。「名人上手が、見世物的な要素もあった歌舞伎を素晴らしい舞台芸術に昇華させた。それを一所懸命に覚え、伝えたい」と後輩への指導にも取り組んでいた。80歳で『勧進帳』の弁慶を演じることを目標のひとつに掲げていたが、ならなかったのが残念である。

【小玉祥子】

経歴

芸歴

▼八代目松本幸四郎(初代白鸚)の次男。祖父の初代中村吉右衛門の養子となる。48年6月東京劇場『俎板長兵衛』の長松ほかで中村萬之助を名のり初舞台。66年10月帝国劇場『金閣寺』の此下東吉ほかで二代目中村吉右衛門を襲名。72年5月伝統歌舞伎保存会の第二次認定を受ける。

受賞

▼1955年第8回毎日演劇賞演技特別賞。75年10月名古屋顔見世での演技に対して名古屋演劇ペンクラブ年間賞。77年度芸術選奨文部大臣新人賞。78年11月『元禄忠臣蔵』の多門伝八郎と井関徳兵衛で、79年8月『勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)』の村井長庵と紙屑買久八で国立劇場優秀賞。84年と95年に眞山青果賞大賞を2回受賞。84年度日本芸術院賞。84年11月歌舞伎座『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』引窓の南与兵衛後に南方十次兵衛で歌舞伎座優秀賞。88年3月歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』の高師直と大星由良之助で松竹社長賞。91年第十二回松尾芸能賞大賞。91年4月歌舞伎座『法界坊』の法界坊ほかで、同年9月歌舞伎座『かさね』の与右衛門ほかで松竹社長賞。93年フジテレビ社長賞。96年第三回読売演劇大賞優秀男優賞。同年第十九回日本アカデミー賞優秀主演男優賞。同年11月歌舞伎座『俊寛』の俊寛で松竹会長賞。99年度第九回日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞。2002年度芸術祭賞演劇部門大賞。同年日本芸術院会員。03年第十回読売演劇大賞選考委員特別賞。06年度第四十八回毎日芸術賞。06年第6回朝日舞台芸術賞。07年第十四回読売演劇大賞優秀男優賞08年第十二回坪内逍遙大賞。同年第二十八回伝統文化ポーラ賞大賞。09年第十六回読売演劇大賞選考委員特別賞。11年重要無形文化財(人間国宝)。14年度第三十一回浅草芸能大賞。16年第三十一回早稲田大学芸術功労者表彰。17年文化功労者。20年日本放送協会放送文化賞。

著書・参考資料

▼写真集(稲越功一写真、田中一光構成)『中村吉右衛門』(1992年、用美社)、著書『半ズボンをはいた播磨屋』(93年、淡交社、2000年PHP文庫から復刊)、著書(伊達なつめ構成)『物語り』(96年、マガジンハウス)、監修『中村吉右衛門の歌舞伎ワールド』(98年、小学館)、著書(阿川佐和子著、稲越功一写真)『吉右衛門のパレット』(2000年、新潮社)、写真集(稲越功一写真)『播磨屋一九九二~二〇〇四 中村吉右衛門』(04年、求龍堂)、小玉祥子著『二代目 聞き書き 中村吉右衛門』(09年、毎日新聞社、 16年に朝日文庫から出版)、写真集(鍋島徳恭記録)『歌舞伎俳優 二代目 中村吉右衛門』(18年、小学館)。松貫四の名で『再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)』『日向嶋景清』『閻魔と政頼』などの脚本も執筆。

舞台写真